戦後初となる総理大臣経験者の暗殺事件がニッポン社会を大きく揺るがしている。なぜ悲劇が起きたのか、評論家の呉智英氏が見解を述べる。
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事件直後に参院選が控えていたため、すぐに「民主主義に対する挑戦だ」といったコメントが流れた。しかし、今回の事件はそうではない。容疑者は政治信条を理由に凶行に至ったわけではなく、まったくの私怨で事件を起こした単なる殺人者でしかない。
テロであるとか、そうした言葉がメディアに躍ったことにまず違和感を覚えた。テロというのは自分と政治信条や思想的な立場の違う人間を暴力によって抑え込むためにやるものだ。
過去には浅沼稲次郎が殺された事件(1960年)があったが、これが典型的なテロだ。思想・信条が違う人間をターゲットにした。つまり容疑者はテロを起こしたわけでもない。
徐々に報道で出てきた旧統一教会との関係に私怨の根っこがあるとみられ、献金のために母親が破産し、安倍氏が団体とつながっている政治家だからと一方的に恨みを募らせたようだ。
事件におけるセキュリティの問題をことさらに取り上げて非難する声もあるようだが、私は少し酷な気がする。むしろ短期的に模倣犯が出てくる可能性があるので、しばらくは注意が必要だろう。今回のことに刺激されて、別の宗教や人間が標的になることも考えられる。
安倍晋三という政治家は長期政権でもあり、それなりの業績があった人物だ。私自身、政治思想に賛成するか否かは別にして、彼が凶弾に倒れたということは歴史的に大きな事件であることは間違いないと考えている。
そして安倍氏の死で影響がありそうなのが、“一丁目一番地”である憲法改正だ。特に「戦力の不保持」「戦争放棄」を謳った憲法9条だ。
これまでの政権は9条を理由にして、真正面から戦争をやらずに切り抜けてきたが、今後はこの9条改正の議論が本格化するだろう。そうなれば、自衛隊を国防軍として認めることも現実味を帯びてくる。岸田文雄・首相も「安倍政権の遺思を継ぐ」と明言していることからも、この路線は避けられないように感じている。
こう見ると、いかにも狙いすましたようなタイミングで今回の事件は起こった。なぜ今なのか、一言では言いにくいが、世界の危機意識や国内の格差問題、これを処理しきれない政治への不信感。そうしたものがある意味“臨界点”に達したのかもしれない。
※週刊ポスト2022年7月29日号