怨霊信仰による日本的展開

 楠木正成は智謀に恵まれた武将であるばかりで無く、人格も優れていた。決して徳のある君主では無かった後醍醐に最後まで忠義を尽くした、「忠臣の権化」でもある。ならば、とりあえず「大忠臣 楠木正成」を復権させようではないか、という流れができた。その復権に最大の貢献をしたのは、江戸時代初期の大名であり思想家だった水戸黄門こと徳川光圀である。

 清に滅ぼされた明から日本に亡命してきた朱子学者朱舜水の教えを受けた光圀は、楠木正成を大忠臣として天下に喧伝した。それはいい、たしかに正成はそういう人物であった。しかし、ここからがまさに怨霊信仰の強い影響を受けた日本的展開と言うべきだろう。光圀は水戸藩(水戸徳川家)の公式事業として始めた『大日本史』編纂事業のなかで、「南朝が正統」という基本方針を定めてしまったのである。

 このことも歴史事典などを見るとさらりと経過だけ書いてあるのだが、本来の朱子学の視点から見ればこんな異常な決断は無い。「原・太平記」に見られるように、後醍醐の南朝が滅んだのは後醍醐が「欠徳の君主」だったからである。だからこそ滅びたのであって、逆に言えば北朝は徳があるからこそ栄えた。ゆえに、その北朝をさしおいて「欠徳の南朝」を高く評価することなど朱子学本来の立場から言えば決してしてはならぬことなのである、しかし、光圀はそれをした。「怨霊信仰による日本的展開」というのはまさにそこのところだ。

 前出の百科事典には、「名分論にたつ水戸藩」とある。名分論とは朱子学の重要な概念で、「中国哲学で、名称と分限の一致を求める伝統的思想のこと。名称は物の階級的秩序を反映しているので、名称を正すことによって階級的秩序を固定化しなければならないとする」(『デジタル大辞泉』)ということである。わかりやすく言えば、「右大臣源実朝」は「臣」という分限(分=身分)であることを、その「右大臣」という職の名称(名)が示しているので、臣下として天皇に仕えるべきで逆らうのは許されないということで、あたり前と言えばあたり前のことだが、それは「君主には徳が無ければならない」という朱子学のもう一つの大原則を否定する力は無い。

 これもわかりやすく言えば、いくら三種の神器を持ち自分は正統な天皇だと「名分論」を主張しても、「欠徳の君主は滅ぶ」という大原則は適用される、ということだ。繰り返すが、後南朝つまり「欠徳の君主後醍醐の子孫」は絶滅した。まさに朱子学から見れば「悪は滅んだ」のであり、南朝つまり「悪の系譜」を評価することなど本来は許されないはずなのに、光圀はそれをした。

 つまり、ここのところが歴史の真理、日本史の真髄の部分なのである。

『大日本史』は膨大な内容であり江戸時代には出版もされなかったが、その史観の強い影響を受けしかも公刊されたことにより誰でも読めたのが、幕末の大ベストセラー『日本外史』である。読みやすく面白い、『大日本史』の見事なダイジェスト版で、注意すべきは明治維新を達成した志士たちは皆このベストセラーの愛読者だったことだ。字の読めない人間でも中身を教わることはできる。桂太郎も志士の末席に連なる人間だった。ましてや西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允といった大物の心のなかにも「南朝正統論」が焼き付けられていたということだ。

 きわめて重要な点なので再度繰り返すが、外国ならこうした考えは絶対悪とされる。「ライバルを倒した王朝に仕えていながら、そのライバルを正しいと認める」わけだから、仕えている王朝に対する「裏切り」になるわけだ。だが日本では、藤原氏に仕えていた紫式部が「ライバルの源氏が勝つ」物語を書いても非難されるどころか賞賛される。このことがわかっていてこそ南朝正統論が復権し、しかも明治の終わりから大正にかけて大きな政治問題になったという、外国では絶対あり得ない現象も理解できるだろう。

(第1349回へ続く)

※週刊ポスト2022年7月29日号

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