今年の「土用の丑の日(一の丑)」は7月23日。近年の不漁で鰻は高級品となりつつあるが、江戸中期に「土用の丑」を発案し、夏場に鰻を食すことを流行らせたのは本草学者・平賀源内だったといわれる。もっともこの説には根拠となる史料が存在せず真偽は不明なのだが、“さもありなん”と思わせるのは、源内が奇抜な発想と博識で当時の学問界とビジネス界をリードした人物だったからかもしれない。だが、あらゆる分野で活躍した異能の人物の晩年は、悲しいほどに破滅的だった。『文人たちの江戸名所』(世界書院)の著者で、江戸文化歴史検定協会の元理事・竹内明彦氏が紹介する。
* * *
享保十三年(1728年)、讃岐国(現在の香川県)に生まれた源内は幼少の頃から才気煥発で知られ、22歳で家督を継ぐと高松藩主・松平頼恭(よりたか)のもとで本格的に本草学(博物学)の勉強を志し、宝暦二年(1752年)頃、25歳にして長崎留学を経験する。
蘭学を志す者にとって、長崎留学は外国の最新情報に接することができる絶好のチャンス。移動の自由も限定されていた時代に若き源内がその機会に恵まれたのは、藩主から相当見込まれていただけでなく、本人のアピール力(大風呂敷?)も大いに関係したのだろう。
長崎で見聞を広め、「世界の大きさ」を知った源内のその後の活躍は多方面に及ぶ。江戸に上ると湯島聖堂の学寮に住み込み、当世随一の本草学者・田村藍水(らんすい)の門下となるや、日本で最初の薬品会(やくひんえ)を企画して大成功を収める。全国各地の薬草や物品を一堂に集めて展示・交換するという「日本で最初の博覧会」は、閉鎖的だった当時の学問の世界では実に画期的で、源内の名は広く知られるようになった。
その後も源内は薬品会などを通じてネットワークを広げ、タルモメイトル(寒暖計)の製作やエレキテルの復元などでも名を上げる。その一方で、国学者・賀茂真淵に入門。さらには戯作や浄瑠璃の作者としてベストセラーを発表するなど、多方面で一流の才能を発揮していく。
ところがそんな華々しい人生を歩みながら、なぜか源内は晩年まで貧乏生活が続き、自身の生活を《米を食う 虫の巣籠もる 寒さかな》と詠んだほど。火事で自宅を焼失するなどの災難もあったが、最大の原因は鉱山開発での相次ぐ失敗にあった。
源内は明和三年(1766年)に秩父中津川で金山事業を始めたが、ほどなくして資金援助していた大名が失脚し、莫大な借金を抱えてしまう。浄瑠璃作品を多数執筆して借金返済に充てるものの、安永二年(1773年)頃には“夢よ、ふたたび”とばかりに、同じ秩父中津川で鉄山の開発に乗り出す。だが、これもわずか1年ほどで失敗に終わり、借金をさらに膨らませてしまう。懲りずに安永四年(1775年)にはまたも秩父中津川で炭焼き事業を始めるも、やはりというべきか行き詰まって2年後に閉じてしまう。