ⒸKazuma Hata/amana inc.
東京2020パラリンピック車いすバスケットボールで史上初の銀メダルを獲得した日本チーム。下馬評を覆すジャイアント・キリングを成し遂げた立役者の1人が、日本代表・古澤拓也(26)だ。高校2年生でU23日本代表入りを果たし、日本代表の若手を牽引してきた古澤は五輪でも世界トップクラスのボールハンドリングとディフェンスを武器としてチームに貢献、スペイン戦では1Qでチーム14得点中13得点と大車輪の活躍だった。いまや車いすバスケットボール界の立役者としての地位を確立した古澤だが、最初は車いすでスポーツをすることを拒み、なかなか自分を認めることができずにいたという。
その古澤が、自身の障害とどう向き合ってきたのか、「障害者になってよかったとは思わないが、生まれ変わっても僕は同じ人生を選びたい」と思うようになった心境の変化について、その胸の内を明かした。
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「甲子園」を目指すことさえ許されなかった
僕は生まれつき「二分脊椎」という先天性疾患がありましたが、小学5年生までは毎日、自分の足で歩いて学校に通っていました。生まれた時から歩けなくなることは分かっていたものの、最初は“車いすユーザー”になることを必死に拒んでいて、医師の先生から止められているのに走り回ったり、運動するのが大好きなやんちゃな子どもだったと思います。
でも、進行性の障害だったので、少しずつ歩くのが困難になってきて。小学6年生で手術を受けてからは、あれほど拒み続けた“車いすユーザー”になりました。幼い頃から野球が好きで「甲子園」に行くことを夢見ていたけれど、目指すことも許されなかったのは本当に辛かったです。
「車いす、かっこいい」に救われた
詳しくは6月に出版したエッセイ『車いすでも、車いすじゃなくても、僕は最高にかっこいい。』に記しましたが、車いすに乗って初めて学校へ行く日は、かなり不安で……。「友達になんて言われるんだろう」とか「みんな、車いすでも遊んでくれるのかな」とかいろいろなことを考えていました。母に「嫌だったら、帰ってきていいよ」と言われながら学校に行ったのですが、校舎になかなか入れなくて躊躇していた時、当時の担任の先生が駆け寄ってきてくれて「車いす、かっこいいじゃん!」って言ってくれたんです。「車いすでもかっこいいと思ってもらえるんだ」と思って、その一言で、光が差し込んだというか、ほっとして一気に明るい気持ちになりました。
ただ、やっぱりまだ完全に自分を受け入れられたわけではなかったし、車いすユーザーになってからできなくなったことはたくさんありました。小学生の時は、運動会で1位になってヒーローになりかったし、中学生や高校生の時は、放課後に友だちが女の子と自転車で“ニケツ”して帰っているのを見ていると、すごく羨ましいと思っていましたね。野球部のグラウンドも見ないようにしていたり。