安倍晋三・元首相は、自分の考えを「明確な言葉」で表現する政治家だった。だからこそ、影響力を持ち、時に賛否の分かれる議論を呼んだ。『週刊ポスト』と国際情報誌『SAPIO』での北朝鮮問題についての発言を改めて振り返ると、政治家として何を追い求めていたのかが浮かび上がってくる。
安倍氏が政治家として全国的な注目を浴びたのは、拉致問題がきっかけだった。2002年、小泉内閣の官房副長官として訪朝。後に拉致被害者5人の帰国を実現させたことに、強い自負があったことは間違いない。
〈2002年の小泉訪朝時、午前中の会談で金(正日)総書記は拉致を認めず謝罪もしなかった。昼食時、私が訪朝団の中で「北朝鮮が国家的関与を認め謝罪しない限り絶対に平壌宣言にサインはすべきでない」と強硬に主張すると、その模様を盗聴していただろう北朝鮮は午後の協議で、一転して拉致を認めて謝罪した〉(『SAPIO』2012年1月18日号掲載)
ただ、その後のさらなる拉致被害者の奪還は一筋縄ではいかないことが続いた。
2004年、2回目の訪朝で拉致被害者の家族5人の帰国は決定したものの、「死亡」「不明」とされた他の拉致被害者10人の再調査はうやむやにされた。その後、北朝鮮が提出した横田めぐみさんの「遺骨」については、他人のものであることが判明。自民党幹事長代理のポストにあった安倍氏は取材に際して怒りを隠そうとしなかった。
〈これまでの外務省を中心とした“対話路線”では、何の解決も生まれない。やはり、政治家の姿勢が重要だと思います。われわれが改めて3人の拉致実行犯の引き渡しを、期限を区切って要求する。そして、めぐみさんの件についてしっかりと弁明をさせる。それができないというのであれば、即、経済制裁すべきです(中略)われわれには、めぐみさんたちを助け出す責任があります〉(『週刊ポスト』2005年1月1・7日号)
当時、北朝鮮への経済制裁については政府・自民党内にも慎重論があった。だが安倍氏は同じインタビューのなかで〈経済制裁でいきなり攻撃を仕かけてくるというのは荒唐無稽な話です(中略)破滅を覚悟して国ぐるみで暴発したことは古今東西ありません。そもそも経済制裁とは相手の嫌がることをするものであって、その反応を恐れているようでは交渉そのものを行なえませんよ〉と、強い口調で慎重派への不満を口にした。
自民党が下野してからも〈対北朝鮮の外交方針の基本は、圧力に軸足を置いた「対話と圧力」だ。(中略)この国を相手にする時、焦ったら負けなのである〉(『SAPIO』2010年10月20日号)と問題解決に強い意欲を見せ続けた。
安倍氏は、拉致被害者奪還の願いを込めて作られた「ブルーリボンバッジ」を常に着用していた。銃撃された日も、上着の襟にはいつもと同じ青いバッジがあった。
まさに政治生命をかけたライフワークだったが、拉致問題の解決は、道半ばで足踏み状態となっている。北朝鮮の金正恩総書記は、安倍氏の死に沈黙を守り続けている。
※週刊ポスト2022年7月29日号