コロナ禍で全627人のうち約3割にあたる174人が休場となった7月場所を制したのは、モンゴル出身の逸ノ城だった。2014年1月場所で幕下15枚目格付け出しデビューし、同年11月場所では史上最速の5場所で新三役(関脇)に昇進。モンゴルの怪物として注目された。当時は白鵬、鶴竜、日馬富士という“モンゴル出身3横綱”が君臨した時代だったが、逸ノ城は「グループの一員」という印象ではなかったという。
若手親方はこう振り返る。
「逸ノ城のデビュー当時、モンゴル力士グループは朝青龍派と旭鷲山派に分かれていた。2人ともすでに引退していたが、その人脈として朝青龍派の代表が日馬富士、旭鷲山派の代表は白鵬といった色合いがあった。それぞれのグループで一緒にモンゴル料理を食べに行くなどプライベートでも行動を共にしていたが、逸ノ城はどちらのグループにも属そうとしなかった。
逸ノ城は遊牧民出身で、モンゴルの首都・ウランバードル出身の他のモンゴル勢とは距離があったのでしょう。デビュー当時は仕度部屋でも誰かとつるむ様子はなかった。関脇でありながら決まった場所には座らない。玉鷲、荒鷲、旭秀鵬といった中間派のモンゴル力士グループに声をかけられることもなく、力士の隙間になんとか場所を確保している状態で、浮いている印象がありました」
その後にモンゴル出身力士たちの人間関係に決定的な亀裂を走らせたのが2017年10月に秋巡業先の鳥取で起きた「日馬富士暴行事件」だが、連日ニュースを騒がせた事件に、逸ノ城は巻き込まれずに済んだ。相撲担当記者が解説する。
「当時の白鵬、日馬富士、鶴竜の3横綱に、鳥取城北高校OBである照ノ富士、貴ノ岩、石浦の関取衆3人を含む計13人が参加した食事会で、二次会の席上で日馬富士が貴ノ岩へ暴行を加え、角界を揺るがす大事件に発展しました。逸ノ城も鳥取城北高校出身ですが、運よく秋巡業を腰痛により途中休場していたこともあって参加していなかった。もともと、照ノ富士と逸ノ城は同じ飛行機で来日して鳥取城北高校に入学していますが、照ノ富士が部屋の移籍によって同じ伊勢ヶ濱部屋の先輩となった日馬富士と交遊を深めたのに対し、逸ノ城は距離を置いたままだったのがよかった面もあるでしょう」
当日の飲み会では、白鵬をはじめとする横綱たちが、貴ノ岩や照ノ富士ら同郷の後輩を締め上げた。膝の故障を抱える照ノ富士に対して正座させて説教し、その後に膝の容態を悪化させた照ノ富士は序二段まで陥落してしまった経緯がある。相撲協会の調査報告書によれば当日、正座させられた状態で日馬富士に頬を張られた照ノ富士は一言、「ごっつぁんです」と応じたといい、グループ内の“上下関係”には驚かされる。