大相撲7月場所。正代、御嶽海、貴景勝の3人の大関陣は前場所と同様に序盤から揃って星を落とし、館内はため息に包まれた。物言いを催促するような仕草を見せたり、横審の苦言に対して愚痴をこぼしたりと言動が疑問視されるシーンもあった。
“昭和の名大関”と呼ばれた力士たちは、違ったはずだ。
相撲取材歴70年の元NHKアナウンサー・杉山邦博氏は「“名大関”の定義は難しいが、大関だったからこそ、その存在が光り輝いたと言えるのは貴ノ花でしょう」と語る。
1972年9月場所後に大関昇進を決めた貴ノ花は、粘り強い足腰と端正なマスクで“角界のプリンス”と呼ばれた。
「軽量力士だった貴ノ花の場合、体つきからして横綱に昇進しても苦労することが想像された。ファンには“綱を張ってほしい”という願いがあったが、今から振り返れば無理に横綱にならないでよかったのかもしれない。そうした状況のなかで、大関としての存在感を十分に見せつけた力士と言えます」(杉山氏)
優勝は大関時代の1975年3月場所と同9月場所の2回だが、印象は鮮烈に残っている。いずれも優勝決定戦の相手は“強すぎて嫌われた力士”の代表格と言える横綱・北の湖。初優勝時は左四つから右前まわしを引き付け、寄り切った。場内には無数の座布団が舞い、歓喜の優勝パレードには2000人が集まった。
「貴ノ花は、小結時代の1971年5月場所では“昭和の大横綱”である大鵬に黒星をつけ、翌日に大鵬が引退を表明。強い横綱を打ち破る力士という印象があるからこそ、綱は張れなかったがファンに愛され、長く記憶に残っている」(ベテラン記者)
大関在位50場所目となった1981年1月場所で、ケガで満身創痍だった貴ノ花は30歳にして引退を表明。その引退の日にNHK中継を担当し、思わず声を詰まらせていたのが前出・杉山氏だが、「横綱を苦しめる、というのが名大関の条件になるでしょう」と続ける。
「その意味では、1969年5月場所後に大関に昇進した清國を挙げたい。初土俵が同期だった大鵬を苦しめ、存在感をアピールしました。強烈な右おっつけで大鵬のヒジを壊すほどの力を見せつけました」