一方、「鑑」には手本という意味がある。「あの人は警察官の鑑だ」という言い方は現代語にもある。古人の言いたいことをまとめれば、「歴史は自らの欠点を正すための貴重な鏡だ。それで自分の姿をよく見つめよ。そして過去の人々の行ないで鑑とすべきことがあれば、よく学ぶことだ」ということだろう。これがまさに歴史の効用である。ところが、それを徹底的に妨害し「鏡を割ってしまう」のが朱子学だ。
いまだに朱子学世界である韓国は、自分の真の姿を見ることができない。その現状を恥じ、むしろ国のため韓民族のために『反日種族主義』を公刊した李栄薫ソウル大学名誉教授は、相変わらず母国では罵声を浴びている。彼の主張を一言で言えば、「偏見やイデオロギーにとらわれずに現実の歴史を見よ」ということで、あたり前のことなのだが、そのあたり前が通らないのがいまの韓国だ。その韓国の現状とこの明治が終わるころの日本の状況はよく似ていると言えるだろう。「似る」のも当然で、ともに朱子学という「毒素」で「歴史という鏡が割られた」状態だからだ。
前に「マスコミは国民の耳目」だと言った。言うまでも無く「国民が現在の世の中について判断材料を得るための道具」だということだ。しかし、マスコミは日比谷焼打事件以来、真実を伝えず国民を煽り媚びる存在と化していた。歴史ないし歴史教育は「国民が未来の指針を得るため過去の行動についての判断材料を得るための道具」だが、この「鏡」もこのあたりで相当壊されていたことがおわかりだろう。この「耳」や「目」がおかしくなり鏡で欠点を正すことができなくなった国家あるいは民族はどうなるか?
結論は言うまでもあるまい。歴史は車のバックミラーのようなものである。バックミラーは後ろを見るための道具だが、なぜ後ろを見るかと言えば安全に前に進むためだ。逆に言えば、この時代の日本はバックミラーの無い車を、耳を塞がれモノが歪んだ形にしか見えない「色眼鏡」をかけさせられた運転手が、運転していたということだ。
いずれ大事故を起こして転覆するということ、少なくともその方向性は、このあたりで定まってしまっていたのである。
(第1350回へ続く)
※週刊ポスト2022年8月5・12日号