ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立IV」、「国際連盟への道2 その4」をお届けする(第1349回)。
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一九一一年(明治44)一月十九日、読売新聞は当日発行紙に「南北朝對立問題(國定教科書の失態)」と題した社説を、第一面トップに三段抜きで掲載した。まずは、この日付にご注目願いたい。「大逆事件」の「犯人」とされた幸徳秋水らに対する死刑判決は、前日の一月十八日のことなのだ。この時代はまだ夕刊が無いので、死刑判決の内容は翌十九日付の「朝刊」で各紙も報道した。まさに、その日の一面にこの社説は載せられていた。
署名は「牛嶺子」というペンネームになっているが、「第一面トップ三段抜き」という扱いから見ても、「読売新聞の総意」であることは間違いあるまい。また、新しい情報では無く社説であるからいつでも掲載可能だったのに、わざわざこの日に掲載したのはインパクトを強めるタイミングを計ってのことだろう。そこから考えるに、例の「いまの天子は、南朝の天子を殺して三種の神器を奪い取った北朝の天子(の子孫)ではないか」という「幸徳発言」は、噂としてかなり世間に広まっていたのではないかと推察される。というのは、この社説には幸徳発言も「大逆」という言葉も一切出てこないが、内容から見てそれを踏まえた「提言」であるとしか思えないからだ。
以下原文を引用しつつ、その内容を紹介する(一部、旧漢字旧カナを改めた)。まず、書き出しは次のようなものである。
〈明治維新は足利尊氏の再興したる武門政治の転覆にして、又北朝の憑拠したる征夷大将軍の断絶なり。〉
おそらく、いま「明治維新とはなにか、述べよ」という問いを発したとして、この種の答えが戻ってくることはまずあるまい。多くの人は、なぜ足利尊氏が突然出てくるのか首をかしげるかもしれない。だが、あまり意識していないだけで少しあの「南北朝時代」を思い出していただければ、後醍醐天皇と対立した足利尊氏が幕府を開設するにあたって、絶対に必要な「天皇による征夷大将軍任命」を実現するため傀儡の天皇を担いだこと、それが後に「北朝」と呼ばれることになったことは、事実として理解できるはずである。
そして年配の人間なら、いまでは「建武の新政」と呼ばれている後醍醐天皇の親政(直接政治)も、かなりの長期間(いわゆる戦後になっても)「建武の中興」と呼ばれていたことも思い出すかもしれない。
これは明治期に確立した歴史観に基づくものである。簡単に言えば、次のようなものだ。
「古代においては天皇が親政を行なっていたのに、いつの間にか関白とか将軍とか名乗る連中が天皇の大権を犯すようになった。誠に不届きな話だが、その日本本来の政治形式である天皇親政を一時的に回復(中興)したのが後醍醐天皇である。だから後醍醐は名君だ。しかし、その壮挙も足利尊氏という朝敵(=極悪人)が後醍醐を裏切り、北朝というニセモノの天皇家をでっち上げて自らを征夷大将軍に任命させることによって崩壊した。その後数百年、その北朝に憑拠した(根拠を置いた)将軍の政治(幕府政治)が続いたが、王政復古の大号令つまり「古代の天皇親政の政体に戻す」という天皇のご命令によって将軍職も廃止され、明治維新が成立した」
なぜ、維「新」をするのに「復古(昔に戻す)」が必要なのか? こんな重大なことも従来の歴史書では理解がしにくいが、この『逆説の日本史』では宗教、思想、イデオロギーが時代を動かす大きな要因であることを強く意識して歴史を記述している。もちろん、それは思想やイデオロギーの「色眼鏡」で歴史を見るのとはまったく違う。
たとえば、足利尊氏は極悪人どころか「育ちのよいおぼっちゃん」で性格もよかった。ただ、日本史に三人いる「幕府の開設者」(他に源頼朝と徳川家康)のなかでは、もっとも決断力に欠けた人物であった。じつは「人がいい」からそうなので、頼朝が上総広常や弟の義経を粛清し、家康が六男忠輝を義絶し豊臣家を滅亡させたような非情の決断ができない。
これに対して後醍醐天皇は、はっきり言おう、人間としては最低の人物であった。そのことは『逆説の日本史 第七巻 中世王権編』に詳しく書いたので、ここでは繰り返さない。興味ある方はそちらをご覧いただきたい。
そんな時間は無い、という人のために簡潔にその内容を述べれば、「後醍醐は最低の人格で、尊氏は人格者だった。だから当時の日本人は尊氏を日本のリーダーに選んだ。ただし、尊氏は非情の決断ができない男であった。北朝を建てるにあたって最大の障害となる後醍醐を隠岐島あたりに『流して』おけばすべて丸く収まったのに、それができずに吉野に逃してしまい、南北朝時代という日本史上最悪の混乱時代を招いてしまった」ということだ。