夏の甲子園と呼ばれることが多い全国高等学校野球選手権大会は、1915年(大正4年)に大阪府の豊中球場で第1回が開催された全国中等学校野球大会を起源としている。1924年に甲子園球場が完成して大会会場が移る前に、二度の優勝を記録しているのが和歌山県立桐蔭高校だ。今年、36年ぶりの夏の甲子園出場を目指していた同校は、和歌山大会決勝まで勝ち進み、智弁和歌山と対戦。7月29日の決勝は終盤まで競り合う好ゲームとなったが、8回表に5点をあげた智弁和歌山が突き放し、7対2で桐蔭が敗れた。悲願は叶わなかったが、大会前から桐蔭が甲子園出場に懸けていた思いを『甲子園と令和の怪物』(小学館新書)著者であるノンフィクションライター・柳川悠二氏がレポートする。
【和歌山 桐蔭】最後の甲子園出場/1986年 最高成績/優勝(1921年、1922年)
草創期である大正から昭和にかけて、絶大な強さを誇ったのが旧制和歌山中、現在の桐蔭だ。
1921年、1922年と、全国中等学校野球大会で史上初の2連覇を達成し、1922年には皇太子時代の昭和天皇が同校グラウンドを訪れ、試合を観戦した。その際に建てられた一塁側のスタンドは現存し、国の有形文化財となっている。
学制改革によって桐蔭の校名となり、全国大会の舞台が甲子園になってからも、1948年と1961年には準優勝に輝いた。だが、近年は智弁和歌山や市立和歌山などの後塵を拝し、2015年のセンバツに21世紀枠で出場したのが53年ぶりの甲子園だった。32歳の青年監督・矢野健太郎が話す。
「伝統校を率いる重圧のようなものはないんですが、錚々たるOBがいて、応援してくださる方の支えがあって今がある。目指しているのは、甲子園で勝つこと。和歌山県内には、智弁和歌山さん、市立和歌山さんと、全国でも上位を狙える学校がある。そこに勝つことが即ち、甲子園での勝利につながると考えてチームを作っています」
決して広いとはいえないグラウンドを他の部と共用するため、基本的には外野はライトしか使えない。トスバッティングをしている球児の背後を、陸上部の選手が走っているのも他にはない光景だった。
「効率を考えて、グループに分けて異なるメニューを回していく。ですが、30人の部員全員で取り組む練習も大事だと思っています」(矢野)
公立校の超名門は、聖地を目指し、これからも戦い続ける。
※週刊ポスト2022年8月5・12日号