今年も「夏の甲子園」が開幕する。ただ、才能溢れる球児が必ずしも聖地に辿り着くとは限らない。最たる例がロッテ・佐々木朗希だろう。高3の夏、岩手大会決勝でまさかの「登板回避」。決勝で先発のマウンドに上がったのは、大船渡高校で背番号「12」を付けていた控え投手・柴田貴広(現・大東文化大学3年)だった──。
当事者たちは今、どう振り返るのか。当時の國安陽平監督やナインの克明な証言を収録した新刊『甲子園と令和の怪物』の著者・柳川悠二氏がレポートする。【前後編の後編。前編から読む。文中敬称略】
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なんで僕?
1対9と大勢が決した7回に國保はようやく継投を決断する。だがマウンドに送ったのはやはり大会初登板となる2年生左腕の前川真斗だった。
前川も当時の正直な気持ちを吐露してくれた。
「出場するとは思っていなかった。突然の登板に気持ちの整理がつかず、頭の中が真っ白のままマウンドに上がりました。『なんで僕?』と思う余裕すらありませんでした。案の定、2者連続で四球……。心の準備ができていませんでした」
前川は2対12で迎えた最終回の攻撃で打席に入り、ショートライナーに倒れた。その瞬間、ゲームセットになった。
「この時ばかりは自分が打席に入っていいのか、と。バッティングも良い朗希さんだって(ベンチに)いたわけですから……」
岩手大会決勝の2か月後、佐々木の背番号「1」を受け継いだ前川は秋の岩手大会に臨み、沿岸南地区予選を勝ち抜き、県大会の3回戦まで進んだ。
「県の1回戦で延長10回を投げ抜いたあと、中1日が空いた2回戦は本来、自分は先発ではなかったんです。國保先生は登板間隔を気にして、先発回避を決めたんですが、どうしても投げたかった僕は志願した。朗希さんの登板回避ばかりが問題になりますが、國保先生は朗希さんだったから神経質になっていたわけではない。すべての投手の身体、肩ヒジのことを考えてくれる指導者でした」
岩手大会決勝から1年後、2020年夏はコロナ禍によって岩手県の独自大会となった。前川にとっての最後の夏。敗北の瞬間、國保は前年の決勝に出場した前川と主将だけを呼んで、労いの言葉をかけていた。
「なぜ國保先生は決勝で僕を投げさせてくれたのか。それを分かりたいというか、自分の中で理解するために、1年間、頑張ったつもりです。ちょっと投げすぎちゃって、左肩を痛めた時期もあったんですけど」
そう笑顔で語る前川は、國保の起用理由に関する答えを最後まで見つけられなかったが、「野球はやりきった」と思えた。だから北海道の大学に進学後、野球から離れた。