ロシアによるウクライナ侵攻は、後戻りできない戦争の恐怖を現代に甦らせた。今から100年近く前、日本もまた自ら悲劇に身を投じていった。その分水嶺となった事件の真相に、歴史ノンフィクションを上梓したジャーナリスト・牧久氏が迫った。【前後編の前編】
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今年もまた8月15日がやってくる。先の戦争を振り返った裕仁天皇の言葉を記録した『昭和天皇独白録』には、こんな後悔の言葉が採録されている。
「国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がったときに、これを抑えることは容易な業ではない」
1931年(昭和6年)、満州事変が勃発。遼東半島の旅順に司令部を置く関東軍の暴走をメディアも国民も熱狂的に支持した。だが、独白録は、満州事変から遡ること3年前の「張作霖爆殺事件」こそが破滅への「15年戦争」の始まりだったのではないかと取り上げている。私は今夏『転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和』(小学館刊)という本を書いたが、その中でこの爆殺事件に残された謎について触れた。
私的な軍事集団である「軍閥」が各地に割拠し中国は乱れに乱れていたが、国民党軍の蒋介石は、中国統一を目指し「北伐」を開始する。1928年(昭和3年)6月4日朝、北伐軍が北京に迫ってくると、大軍閥「奉天派」を率いる張作霖は北京脱出を決意、京奉線の特別列車で地元の奉天(現・瀋陽)に向かう。その特別列車が、満鉄本線と交差する奉天駅近くの皇姑屯で大爆発を起こした。
張作霖は即死に近い状態で奉天の自邸に担ぎ込まれたが、午前10時過ぎには死亡する。奉天軍は、張作霖は軽傷だと発表し、大軍を率いて華北にいた長男の張学良が戻るまで、その死を伏せた。
事件は当時、「満洲某重大事件」と呼ばれ、事件の詳細は長年、秘匿されてきた。封印が解かれ事件の一端が明らかになるのは、戦後の1947年(昭和22年)2月のことである。日本の“戦争犯罪”を裁く極東軍事裁判(東京裁判)に検察側証人として元陸軍少将・田中隆吉が出廷、尋問にこう答えた。
「関東軍高級参謀の河本大作大佐が、奉天独立守備隊中隊長の東宮鐵男(とうみや・かねお)大尉ら将校の何人かを引き連れて、奉天の西の鉄道交差点にかかる橋に爆弾を仕掛け、張作霖を殺害した。張作霖の乗った特別列車が鉄橋の下を通過した瞬間に爆弾に点火された」
この田中証言で、事件の犯人が河本や東宮であることが明らかになったが、ではなぜ彼らが張作霖暗殺を実行したのかという「動機」にはまったく触れておらず、大きな謎として残った。河本や東宮はなぜ、これほど大掛かりな爆殺事件を起こしたのか──その動機が解明されない限り、事件の真相が明らかになったと言うことはできないだろう。