ロシアによるウクライナ侵攻は、後戻りできない戦争の恐怖を現代に甦らせた。今から100年近く前、日本もまた自ら悲劇に身を投じていった。その分水嶺となった事件の真相に、歴史ノンフィクションを上梓したジャーナリスト・牧久氏が迫った。【前後編の後編。前編から読む】
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「空白の23日」には、東宮が爆殺事件の実行犯になるまでの経緯や胸中の思いが記されていたはずである。目の前の原本にはその部分があるのではないか、と、その日付を探してみたが、原本にも肝心の23日分はなかった。私は惇允氏に、その部分の存在について何度も問いただしたが、彼は「その部分は最初から抜き取られていた」と繰り返すばかりだった。
しかし、東宮日誌の消えた「23日分」の中身を知る手掛かりはある。爆殺事件の直前に起きた「済南事件」で、蒋介石の北伐軍に同行していた佐々木到一中佐が『ある軍人の自伝』と題する自著を書き残していた。
1923年(大正12年)、30歳の東宮は中国語を学ぶため私費で広東に留学する。現地で東宮が訪ねたのが、陸軍随一の中国通といわれた佐々木到一だった。当時国民党の本拠地だった広東に駐在武官として赴任した佐々木は孫文と親しくなり、彼を敬愛してやまなかった。
「東宮はほかの日本人と違った目で中国社会と中国人を理解する特別の才能をもっていた」と彼の才能を評価した佐々木は、私生活にいたるまで東宮の面倒をみる。東宮も佐々木に傾倒し、深い交友がはじまった。
じつは、この広東留学中に東宮は河本大作と会っている。北京公使館付武官の河本が広東に視察にやってきた際に市内観光の案内役を頼まれたのだった。おそらく佐々木が画策して河本と東宮を引き合わせたのだろう。以来、河本と東宮の間にも深い信頼関係が生まれていた。
その後、佐々木は北京の日本公使館付駐在武官(中佐)となり、北伐を開始した蒋介石の国民党軍に同行する。多数の日本人居留民が殺害された「済南事件」の渦中で、両軍の間に立って停戦の努力をしていたがやがて戦地で負傷する。佐々木は、北伐軍の手によって病院に収容されたが、その病室を蒋介石が見舞いに訪れたという。傷の癒えた佐々木は日本に戻るが、“売国奴”扱いされ、再び中国の南京に赴いた。
佐々木は自著『ある軍人の自伝』で張作霖爆殺事件の“真因”についてこう書いている。
〈予はむしろ(張作霖が支配する)奉天王国を一度国民革命の怒濤の下に流し込み、しかる後において、わが国内としてのとるべき策があるべきものと判断した。(略)
そこで密かに関東軍高級参謀だった河本大作大佐に書を送り、(略)この機会に一挙作霖を屠って(略)一気呵成に満州問題を解決せんことを勧告した。(略)
この事件の真相を活字に組むことは永久に不可能であるが、予の献策に基づいて河本大佐が画策し在北京歩兵隊副官下永憲次大尉が列車編成の詳細を密電し、在奉独立守備隊中隊長東宮鐵男大尉が鉄道爆破の電気点火器のキイをたたいたのである〉
佐々木のこの記述から事件の背後に浮かび上がるのが蒋介石の存在である。蒋介石と佐々木の間になんらかの“密約”があったのではないか。あるいは佐々木が孫文の悲願だった中国統一を達成しようとしている蒋介石を側面から支援しようとしたのではないか、という推測である。