世界で戦えるマラソン選手の育成──そのことに心血を注いだのが、早稲田大学競走部の監督などを歴任した中村清(1985年没、享年71)だ。エスビー食品陸上部監督時代には、有望選手が次々と“中村学校”の門を叩いた。その指導法には、「常軌を逸している」と言われるほどの凄みがあった。(文中敬称略)【全3回の第2回】
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中村に師事した瀬古利彦(現・日本陸連副会長)は「絶対にNOと言わない」と自らに課したが、生半可なことではなかった。「外食禁止」「男女交際禁止」など、指導は生活の細かな部分に及んだ。
「中村監督がトイレの中まで入ってくることもありました。便の色を見て“これなら大丈夫”と呟いたりして……。下宿は監督の自宅敷地内にあるアパートの2階。突然、部屋に来て冷蔵庫を開け、中身を確認されることもあった。やはり、憲兵隊長だなと(苦笑)」
朝、昼、晩と、食事後には最低1時間、「訓話」があった。瀬古の印象に残るのが「日本刀の刀鍛冶」の話だ。中村はこんな言い方をしていた。
〈なぜ、なんでも切れる刀ができるか知っているか。刀鍛冶が毎日、魂を入れて打つからだ。あれは刀鍛冶の魂の塊なんだ。お前たちも一歩一歩、魂を入れて走りなさい。そうしないと魂を込めて走る外国人には勝てない〉
精神論ではないか、と尋ねると瀬古は笑いながらこう応じた。
「そう、9割以上が精神論です。技術の話はほとんどなかった。“足が速いだけなら犬や馬に負ける。人間的にも一番になりなさい”といった具合にね」
そうした指導で、多くの才能が花開いた。
中村は終戦直後に一度、早大競走部でコーチとなった。映画監督の篠田正浩は1949年に入学し、中村の指導を受けた一人だ。
1950年の箱根駅伝で篠田は、1年生ながら「花の2区」を任される。区間5位で走り、早大は準優勝を果たした。篠田がレース後に起用理由を尋ねると、中村は「ベテランは自分のペースを守ろうとするが、新人は周囲につられて早く走ることもある。新人には未知の魅力があるんだ」と答えた。その考え方は、映画監督としての仕事にも影響を与えたと篠田は述懐する。
「新人起用にはリスクもあるが、中村先生は“失敗したら俺が責任を取る。成功すれば君たちの名誉だ”と言い切った。自分は裏方で、手柄は走った選手のものという姿勢に感銘を受けました。映画を撮るようになった私が積極的に新人を起用したのは、その影響です」