高校球界の人気を東西で二分する横浜高校とPL学園。両校の元監督と元コーチが、神戸村野工業で指導者としてコンビを組んだのだ。新刊『甲子園と令和の怪物』が話題となっているノンフィクションライター・柳川悠二氏がレポートする。【前後編の後編。前編から読む】
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横浜の監督を解任され、学校を退職したあと、平田徹氏(39)は次に監督をやるなら新設の学校か、古豪復活を目指すような学校だと考えていた。春2回、夏1回の甲子園出場はあるものの、30年も甲子園から遠ざかっていて、なおかつ学校改革の途中にある神戸村野工業の監督は願ってもない話だった。
「私を必要としてくれるところがあれば、どこへでも行きたいという気持ちでいました。ただし、私が監督になり、メディアに取り上げていただくとなると、過去のことは切り離せない。学校に迷惑をかけるわけにはいかないという思いはありました。面接でその話をすると、『それは過去のことで、退職したことで責任は果たしている。ネガティブな要素よりも、(平田)先生のこれまでの経験と実績を評価させてもらった』というようなお言葉をいただきました」
それならば身を粉にして村野工業の再建に努め、高校野球界に居場所を失っていた自身を“救済”してくれた村野工業に恩返しする。そう決めた。
「100年の歴史がある学校でありながら、校名を『彩星工科』に変更して、新校舎を新築し、コースを再編して、指定運動部を強化するという方針でした。私は保健体育の教諭として採用していただきました」
平田氏の起用はつまり、甲子園出場を期待してのことだろう。採用にあたって、「甲子園常連校を作ってほしい」と厳命された。しかし、大阪桐蔭と共に、高校野球のヒエラルキーの頂点に立つ横浜の監督から、低迷している兵庫の私立の監督に就任することはいわば“都落ち”にも思える。
「うん、それはまったく気にしませんでしたね。横浜の監督をやっている時は、長く監督を続けたいと思っていましたし、監督を外された当初は、絶対に戻りたいと思っていました。戻れないということがはっきりした時、その現実を受け入れるのにしばらく時間がかかりました。だけど、横浜を離れて時間が経つと同時に、横浜という名門への執着はまったくなくなりましたし、むしろ長らく低迷している学校でやりたいという気持ちが強くなりました。守成と創業ではありませんが、守成は経験したので、今度は一から再生させるということをやってみたいと思いました」