緊迫した投手戦、息をつかせぬ乱打戦──炎天下の甲子園球場(兵庫・西宮市)で、高校球児たちがはつらつとグラウンドを駆ける。だがその裏で、選手たちは相手チームとは別の“見えない敵”との戦いも強いられていた。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が、コロナ禍の影響を受けた球児たちの夏をレポートする。【全3回の第1回】
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新型コロナに翻弄されたこの夏の甲子園を象徴するのが、8月9日に一回戦を迎えた岐阜の伝統校・県立岐阜商業(以下、県岐商)だった。クラスター(集団感染)の発生により、ベンチ入りメンバー18人のうち10人を入れ替えて臨んだ初戦で、夏初出場の社(兵庫)に1対10と大差で敗れた。聖地からの去り際に、鍛治舎巧監督(71才)はこんな言葉を残した。
「1度、いや2度ほど、出場辞退を考え、責任教師と話をしました。エースピッチャーがダメで、キャッチャーもダメで、ショートや、1番2番の外野手もコロナに感染しました。
チームの守りの要であるセンターラインが完全に崩壊し、これは野球にならないんじゃないか、と。控え選手にも陽性者がいました。“ツギハギ”のポジション変更で、相手の社高校さんに失礼になるのはもちろんのこと、全国のファンにもまともな試合をご覧いただけるのかと……」
出場辞退が脳裏をよぎるたびに、レギュラーメンバーの中で陰性だった主将の伊藤颯希ら3人の3年生の顔が浮かんだ。
「彼らのために、そして一生懸命部屋で自主トレをして、二回戦以降の試合出場を目指している陽性の選手のためにも、監督であるわたし自ら幕を引くわけにはいかないと思い直しました。恥ずかしい試合となってしまいましたが、こうなったのもわたしの責任です」(鍛治舎監督)
コロナ元年というべき2年前の夏、県岐商は教員や生徒に陽性者が出たため、岐阜県の独自大会出場を辞退した。同年春に中止となったセンバツ大会に出場を予定していた学校が参加した、甲子園球場での交流試合こそ出場にこぎつけた。しかし、クラスターが起きた直後ということもあり、試合当日に岐阜からバスで甲子園に入り、そのまま日帰りするスケジュールを強行。選手たちは万全の状態でプレーすることができなかった。
あれから2年、またしてもコロナが県岐商を襲った。49代表校の選手たちがフェスティバルホール(大阪市)に集められた8月3日の組み合わせ抽選会後、宿舎に戻った県岐商ナインが次々と体調不良を訴えた。翌々日の開会式リハーサルは欠席。ベンチ入りメンバーを含む複数選手の陽性が判明した。