1983年にスタートした『世界まるごとHOWマッチ』(MBS・TBS系)に準レギュラーとして出演し、大物司会者である大橋巨泉さんに食ってかかるような物言いで人気を博したチャック・ウィルソンさん(75)。テレビに出始めた頃は東京・麻布のスポーツジムの共同経営者だったが、その後、ビジネスにも追い風が吹くようになった。【全3回の第3回。第1回から読む】
「当時はバブルが弾ける前で、日本の経済状態が極端によかった。僕はそれまで“怪しい外国人”と思われていたけど、テレビに出たら一気に名前が売れて、社会的信用も得られた。この機会に自分の力で健康づくりを広めたいと思い、1987年にスポーツジムから独立して『チャック・ウィルソン・エンタープライズ』を設立しました」(チャックさん。以下同)
目指したのは、「人生を長く楽しく生き切る」ための健康づくりのサポートだ。総合スポーツセンターの企画提案や体力づくりのカウンセリングなどの事業を進めると、テレビ出演による知名度の高さも手伝い、ビッグビジネスの依頼が舞い込むようになった。
「大企業から、『スポーツ施設の企画をやってほしい』とのオファーがいくつもありました。僕はプロデューサーとして市場を調査して事業計画書を作り、建設業者とも仕事をした。施設のオープン後2~3年は業務委託で現場の指導をして、業績が軌道に乗ってから引き渡すというプランでした。業績は絶好調で、社員を20人ほど抱えるようになった」
『HOWマッチ』ではケチャック(ケチなチャック)とあだ名がついたチャックさんだが、本業は大盛況となった。このままさらにビッグになる──そう思った矢先に、バブル崩壊という大きな落とし穴が待っていた。深いため息とともにチャックさんが振り返る。
タレント業のオファーも減って……
「バブルが弾けて、大企業がスポーツ施設の副業から一斉に手を引きました。1990年6月時点で数十億円の仮契約があって、プロデュース料が3%くらい入る予定だったけど全部パー。“年収1億円”を目前に、翌月には従業員の給料が払えなくなりました。事業は大幅縮小、タレント業のオファーも減っていった」
大商いから一転して倒産寸前という大ピンチを迎えたチャックさん。だがこの時、知人に名古屋の企業を紹介してもらったことが救いの手となった。
「名古屋の企業は、輸入した運動機器を医療機関に販売するディーラーでした。そこと契約して、輸入元の企業と連携したり、運動機器を病院やスポーツセンターに買ってもらうために自ら営業をした。月の半分は名古屋に単身赴任。そうした生活を5年ほど続けるうちに、売り上げが5~6倍になりました」
復調の足掛かりをつかんだチャックさんはその後、茨城県牛久市で生活習慣病を予防する運動施設をプロデュース。運動療法のプログラム作成や指導に取り組んだ。2000年からはマンツーマンで健康づくりを指導するパーソナルトレーニングを始め、コロナ禍の現在も30人以上の顧客を個別指導している。