故人の願いを叶えることは、本心から寄り添った人にしかできないのかもしれない。俳優として、社長として石原軍団を支え続けた渡哲也さん(享年78)が天国へと旅立ってから2年──いつもそばで見守った妻は、いまでも夫を立て続けている。
閑静な住宅街の一角にあるその寺の本堂は、都内でも有数の歴史を誇る木造建築で、国の重要文化財に指定されている。玉砂利が敷き詰められた境内のひときわ大きな区画に建てられた墓に、白いトルコキキョウが供えられ、真新しい卒塔婆が立てられていた。そこには、2020年8月に肺炎のためこの世を去った渡哲也さんが眠っている。
7月下旬、その墓前で渡さんの三回忌法要が営まれた。だが、長らく「石原軍団」を率いたことからは想像もできないほど、ひっそりとしたものだったという。
「法要に参加したのは近親者数名のみで、石原軍団の俳優たちの姿はなかったそうです。生前、渡さんは静かに送ってほしいという希望を持っていました。そのため、葬儀も密葬でしたし、三回忌法要をすること自体、限られた人にしか知らされなかった」(芸能関係者)
渡さんの死後、妻の俊子さんは、かたくなにその遺志を尊重している。その背景には、俊子さん自身の思いもあったようだ。
1964年に日活で俳優人生をスタートさせた渡さんは、1971年に石原裕次郎さん(享年52)が率いる石原プロモーションに入社した。青山学院大学の同窓生だった俊子さんと8年間の交際を経て結婚したのは、ちょうどその頃だ。
「渡さんが“おい”と呼べば俊子さんが“はい”と駆けつける、亭主関白を絵に描いたような夫婦でした。一方、渡さんは俊子さんを頼りにしていて、会見や取材で何を話そうか迷ったときには、俊子さんに電話してアドバイスをもらっていたほど。それだけ絶大な信頼関係だったんです」(前出・芸能関係者)
その後、『大都会』シリーズ(日本テレビ系)や『西部警察』(テレビ朝日系)といったヒットドラマに恵まれたが、渡さんの人生は病との闘いでもあった。1974年に胸膜癒着症でNHK大河ドラマ『勝海舟』を途中降板。1987年に裕次郎さんが亡くなって石原プロの二代目社長に就任して以降も、1991年に直腸がんを患い、人工肛門での生活を余儀なくされた。
「長らく石原プロの看板を支え続け、2011年に社長を退任。肩の荷を降ろしましたが、それでも病魔は渡さんに迫り、2015年には急性心筋梗塞、2016年からは肺気腫や喘息などのため酸素吸入器が手放せなくなりました」(前出・芸能関係者)
そんな状態にもかかわらず、2017年に石原プロの相談役に復帰した。
「そもそも健康上の理由で社長の座を降りたのに、相談役とはいえ闘病中の復帰には、俊子さんも“そこまでしなくても……” と複雑な思いを抱いたようです」(別の芸能関係者)
石原プロの関係者はこう振り返る。
「裕次郎さんの遺言は“おれが死んだら、石原プロは終わり”というものでした。渡さんとしてはその遺言を守りたかった。でも、そこで石原プロを終わらせると、裕次郎さんの妻・まき子さん(89才)や、ほかの所属俳優たちを見放すことになってしまう」