シドニーの歓喜とアテネの魔物
康生氏の2歳上であった私は、世界へ羽ばたこうとする故郷のヒーローを追うべく、大学の在学中からスポーツライティングの道に入った。とはいえ、2000年のシドニー五輪当時の私は、記事を発表する媒体もろくにないライターの端くれ。半年間のアルバイトで貯めた資金を元手に初めての海外となるオーストラリアに渡り、明氏ら応援団のすぐ近くの観客席で金メダルを見届けた。
明氏は歓喜の瞬間、前年に亡くなった妻・かず子さんの遺影を落として額の一部が壊れてしまう。それを拾う手伝いをしたのも私のシドニーでの記憶の一部であり、その後、修復された遺影は康生氏の手に渡り、表彰台で掲げたのは五輪史に残る感動シーンだ。
その日の夜、私の経歴を知っていた明氏と長男の将明氏は祝勝会場に招き入れてくれた。金メダルをぶらさげて会場に入ってきた当時22歳の康生氏はプライベート空間に潜んでいた私をきっといぶかしんだだろう。
シドニーからアテネへと向かう4年間が、私にとってはライター稼業の礎となった期間であり、柔道の記事を執筆する機会も増えていく。日本武道館などの記者席に座っていると、「出世したなあ」と、明氏や将明氏らにからかわれ、恐縮したことも覚えている。
そして、2004年のアテネ五輪も、私は明氏と一緒だった。日本選手団の主将を務め、金メダル確実と言われていた康生氏は、4回戦において背負い投げでまさかの一本負け。連覇の夢は潰え、敗者復活戦でも敗れてしまってメダルなしに終わった。
ホテルに戻るバスの中で、おしゃべり好きな明氏がサングラスをかけてずっと黙り込んでいた失意の姿が忘れられない。「シドニーで康生は『五輪に魔物はいない』と話していましたが、アテネにはプレッシャーという魔物がいた」と声を落とした。
その夜、明氏は私の長時間にわたるインタビューに応じ、それを手記として発表した。一部を抜粋する。
「勝負の世界の恐ろしさ、厳しさを私自身、人生の中でこれほど痛感したことはありません。この場から逃げ出したくなるほどの思い、耐えきれない屈辱感。これは、私以上に康生自身が感じていることでしょう。
夜の残念会の席で、やっと康生が電話をしてきました。まるで小学校低学年の子供が言うような、か細い、弱々しい声で『お父さん、ごめんね』と。ほんとうにこれが康生の声なのかと信じられないような気持ちで、私はただ一言『逃げるな』と言ったんです。
その電話で、今の康生がどれほどの屈辱感を味わっているかが理解できました。そしてその康生が私に対して、精一杯の力を振り絞って言葉を発してくれた。そのぐらいの気力しか、今の康生にはないのかと、改めてこの現実に、私も全身の力がすべて抜け出るようでした。(中略)康生は、この敗北の直後から既に、新たなスタートの決意をしていることと信じています。私もこの屈辱感を正面から一緒に受け止めて、康生と共に歩きたいと思っています」