9月6日、巨人の終身名誉監督である長嶋茂雄氏(86)が脳出血で都内の病院に緊急入院した。その後、「命に別状はない」と報じられ、次女・三奈さん(54)は球団を通じて〈手足のリハビリを始めています。意識ははっきりしていて、声も力強く元気です〉と発表した。無事であったことに、日本中が胸をなで下ろしたのではないか。まさし「昭和の大スター」である長嶋氏が残した数々の伝説は、令和の時代にも私たちを元気にしてくれる。そんなミスターの逸話を振り返ろう。【全4回の第1回】
“ミスタープロ野球”は、立教大学在学中から東京六大学リーグで大活躍を見せ、プロ3球団の争奪戦の末、巨人に入団した。
野性的な動きと勝負強いバッティングで一躍人気者となると、プロ2年目の1959年には天覧試合でサヨナラホームランを放ち、ヒーローの座を不動のものとした。
「記憶の長嶋」と言われるが、シーズン最多安打10回はダントツの日本記録。巨人の9年連続日本一(1965~1973年)をチームリーダーとして牽引した。
当時の少年たちは、そんな長嶋氏に心をときめかせた。熱狂的な長嶋ファンの漫画家・黒鉄ヒロシ氏(77)はこう言う。
「あの頃はどこの家もオヤジが戦争帰りで、貧乏な家庭ばっかりだった。まあ、全員が貧しいから貧乏を貧乏と思っていませんでしたけどね(苦笑)。遠足にバナナを1本持っていけるというだけで嬉しくて仕方なかった。
そんな時代に登場したのが長嶋さんでした。それまでも川上哲治さんのような有名選手はいたが、やっぱり長嶋さんは別格。僕は50年ほど前から“長嶋さんは民間天皇”だと言っています。今の若い人はピンと来ないかもしれないが、それぐらい特別な存在だった」
ゴロをさばく動きひとつとっても華やかだった。
「後に長嶋さんに直接聞いた話だと、あの守備は歌舞伎の六方(手足を大きく振るなど動きを誇張する演出)を参考にしていたそうですが、とにかく派手でね。まだ貧しかった時代に、『長嶋茂雄』は最高のエンターテインメントでした」(黒鉄氏)
高度経済成長期を迎え、ラジオからテレビへの転換期でもあった。ブラウン管越しの長嶋氏が輝いて見えたと話すのは、巨人ファンで知られる落語家のヨネスケ氏(74)だ。
「僕は同じ千葉県出身ですが、最初に長嶋さんのことを知ったのは、立教大学時代にホームランを打つ場面をテレビで見た時のことです。まだ我が家にはテレビがなくて、隣の魚屋で中継を見せてもらい、“これが長嶋だ。将来プロで活躍するよ”と教えられた。巨人入団後の人気はもう別格で、風呂屋の下駄箱や脱衣箱は長嶋さんの背番号である『3番』の奪い合い。しばらくして(王貞治氏の)『1番』を欲しがる子も増えましたが、僕は『3番』を貫きましたね」
今回の入院の一報にも、「全く心配していません。またすぐにリハビリで元気になった姿を見せてくれるんじゃないかな」とヨネスケ氏は少年のように目を輝かせた。
(第2回に続く)
※週刊ポスト2022年9月30日号