まさに穏当な良識に基づいた見解と言っていいだろう。だが、問題は世論の圧倒的支持は与謝野晶子では無く、藤澤元造そして大隈重信に集まったということだ。なぜ集まったかはすでに述べたように「大忠臣の楠木正成の主君後醍醐天皇こそ正統なる主君に間違い無い」という、まさに大隈重信も支持した見解が大衆に支持されたからだ。ではなぜそれが支持されたかと言えば、その根底に、後醍醐天皇を正統にしなければ楠木正成の忠義はすべて無駄な努力になってしまい、大忠臣正成の死が無駄になってしまう、という考え方があるからだ。
ここは重要なところなのでもう一度繰り返すが、中国の朱子学においては決して正成の忠義は無駄にならない、むしろ後醍醐天皇のような暗君に忠義を尽くしたというところで正成は本当の意味での忠臣として賞揚されることになる。ところが日本には怨霊信仰があるので、無念の死を遂げた後醍醐天皇、その後醍醐に最大の忠義を尽くしながら南朝を守りきれずやはり無念の死を遂げた楠木正成の霊を鎮魂するため(怨霊としてこの世に祟りを為さしめないために)には、彼らの望みを叶えてやらなければいけないという思いが生まれる。
では彼らの鎮魂にはなにが一番必要か? それは、彼らの主張「南朝こそ正統である」を国として認めることである。だから南朝正統論は正しいのだ、ということになる。なぜ南北朝正閏問題が重要なのかと言えば、幸徳秋水の「いまの朝廷はニセモノではないか」という趣旨の発言が、まさに「触媒」となって明治末年の日本社会を揺るがし、それまで眠っていた怨霊信仰を日本人に再認識させたからである。
日本人は過去から怨霊の祟りを恐れていた。それが政治だけで無く、あらゆる文化の根源にある。国を奪われたオオクニヌシは出雲大社で丁重に祀り、無実の罪で憤死を遂げた菅原道真は天神として同じく丁重に祀った。藤原氏は抗争の末ついに中央政界から追放した源氏を、紫式部に書かせたフィクション『源氏物語』のなかでは敗者で無く勝者とした。
また安徳天皇と平家一門が西海で無念の死を遂げたときは、天台座主慈円が『平家物語』をプロデュースし琵琶法師の手で全国に広め鎮魂した。その後日本に「ドライな」朱子学が入ってきて「後醍醐天皇の滅亡は欠徳の帝王である後醍醐の自業自得だ」という観点から『原・太平記』が書かれたものの、これではまったく鎮魂にならないと恐れた誰か(おそらく貴族階級に属する人物)が、その後日談として後醍醐天皇や楠木正成が怨霊として復活し世を乱す物語を『原・太平記』に付け加えた。そして後醍醐天皇を排除した足利尊氏が始めた室町の世では、舞台の上で怨霊を鎮魂する演劇(能楽)が誕生し発展した。それが日本の信仰であり文化なのだ。
もっとも日本人の最大の欠点は、いまでもそういう人は多いが、日本人は完全に無宗教だと思い込んでいることである。歴史学者もそうした人がほとんどであればこそ「宗教の無視」を前提とする欠陥歴史学の下僕になってしまうのだが、たとえば自分はキリスト教徒だという自覚があれば、キリスト教に基づくユダヤ教徒やイスラム教徒への偏見も、理性を総動員すれば客観的に把握することができる。そしてそれができれば、そうした差別偏見にとらわれないように自分をコントロールすることも可能になる。だが、これとは逆に自分はなにも宗教を信じていないと思い込んでいる人間は、深層心理にあるそうした信仰に逆にコントロールされてしまう。
先の話だが、大日本帝国はなぜ一九四五年(昭和20)に大破局したのか?
その最大の原因は怨霊信仰にある。明治になってからは「怨霊」というおどろおどろしい言葉は嫌われ「英霊」になったが、信仰の中身は変わっていない。そしてそれが強化されたのがこの時代であり、じつに皮肉なことに「大逆事件」の被告とされた幸徳秋水がそのきっかけを作ってしまったのである。
(第1355回へ続く)
※週刊ポスト2022年9月30日号