個人的にはスピーチライターがついていたのだろうと思った。安倍元首相にも長年に渡りスピーチライターたちがついていた。首相時代の菅氏にもスピーチライターはいただろうが、振り返って人々の記憶に残るようなスピーチがあったかと考えると、スピーチライターが書いたのでは?という推測は、違うと感じたのかもしれない。
とすれば、誰がこれを書いたのか? なぞ解きをする過程で”それはそういうふうに作る”という自分の経験も相まって、電通ならそれもあり得ると結論づけたのだろう。そこにあったのは「信念バイアス」だ。信念というのは、いささか言い過ぎた表現だが、要は結論がもっともらしいと、そこに至るまでの前提やロジックも正しいと思いがちだということだ。この弔辞を菅氏が書いたとは直観的に信じられず、他の誰かが政治的意図をにおわせないように書いたと結論づけ、そう推理したのだろう。
テレビ朝日の定例社長会見で、篠塚浩社長は玉川氏が誤認した経緯を「憶測によるさまざまな情報を入手して、誤解をしてしまった」と説明した。結論ありきで集めた情報は、自分にとって都合がいいように、結論に沿うように取捨選択されやすい。
玉川氏が「誤解」したのは、内容もさることながら、弔辞での菅氏の語り口が誰よりも人々の心に響いたことも関係していると思う。以前、このコラムでも首相時代の菅氏の発言について書いたが、淡々とした口調にはメリハリがなく、訥々としているが感情が伝わりにくかった。冷静で落ち着いた泰然とした構えはアピール性が低く、人の目を惹きつけない。首相として、人々の心に訴えかけるような強いメッセージ力が菅氏にはなかった。だが逆に考えれば菅氏の語りかけ方は、葬儀という場に最もふさわしかったと思う。多くに人の心に訴えかけ、誰かの心を動かすより、故人に語りかけ、話しかけるものが弔辞だと思うからだ。
国葬であり、弔問外交とよばれた行事である。そこに政治的意図があるのは当然だろう。しかし、故人を悼む気持ちに、このような形で水を差すようなことはすべきではなかった。羽鳥アナは玉川氏が復帰する時、「改めて説明し、謝罪するべき」と述べたが、さて玉川氏は復帰後の発言を”そういうふうに作る”のだろうか。