10月22日に開幕するプロ野球の日本シリーズ。史上最年少の三冠王・村上宗隆を擁するヤクルトと、エース・山本由伸が大黒柱のオリックスが2年連続で日本一を争うことになる。幾多の名勝負が繰り広げられてきた日本シリーズだが、歴史を紐解くと現代のプロ野球では考えられないような活躍を見せた名選手たちがいた。
多くの野球ファンに語り継がれているのが1979年の近鉄対広島のシリーズだろう。第7戦9回裏の「江夏の21球」はあまりに有名だ。近鉄は悲願の日本一に手が届きかけていたが、広島の救援エース・江夏豊に阻まれた。
当時、現場で取材していた元デイリースポーツ編集局長の平井隆司氏は「やはり、江夏はスターだった。傲岸不遜であり、それでいて激烈な寂しがりやという“特異なスター”だったからこそ、山際淳司氏(ノンフィクション作家)も注目して『江夏の21球』を書き、あのドラマがクローズアップされた」と振り返る。
1979年の日本シリーズは3勝3敗で迎えた第7戦が、小雨の降りしきる大阪球場で行なわれた。広島はわずか1点のリードのまま終盤を迎え、7回2死二塁の場面で江夏がリリーフとして登板。7回、8回を抑え、日本一までアウト3つとなったところからドラマだった。9回裏、近鉄の先頭バッターの羽田耕一が初球を叩いてセンター前に運ぶ。代走に藤瀬史朗が送られ、アーノルドの4球目に二盗を試みる。捕手・水沼四郎からの送球がそれてセンターにまで転がり、無死三塁というピンチを招いた。
「江夏は明らかに動揺していた。江夏は“近鉄はずっと初球に手を出していなかった”と話していたが、この決めつけに近鉄が付け込んだ。藤瀬の盗塁はヒットエンドランの失敗だったといわれるが、投球がワンバウンドになってそれていなければアウトだった」(同前)
アーノルドを歩かすと、広島ベンチから古葉竹識監督がマウンドに向かった。
「その顔を見るなり江夏は激高。“オレを信用してないんか”“それならオレは野球を辞める。辞めて今からすぐに帰る”と告げた。内野手も集まったが、日頃から江夏とうまくやっている衣笠(祥雄)が“お前さんの気持ちはよくわかる。ここはそれ以上は言うな。監督が来たのも理解してやれ。気にするな”とその場を収めたんです」(同前)
次打者の平野光泰も歩かせて満塁策が取られた時点で、近鉄に勝利の女神が微笑むと誰もが思った。だが、ここからはすべてが近鉄に裏目、裏目となっていく。
「前年の首位打者だった佐々木恭介を代打に送ったが、江夏の持ち球の“スラーブ”が雨で曲がりが大きくなったことで、三振に切って取られる。続く石渡茂は2球目でスクイズを試みるも、江夏がとっさにウエスト。たまたま握りがカーブだったことで、ボールは低かったが大きく曲がり、バットは空を切った。三塁ランナーが本塁直前で憤死。江夏は茫然自失の石渡を三振に仕留め、近鉄はチャンスを逃したのです。