プロ野球ドラフト会議2022は、例年になく単独指名選手が多く、結果的に1位指名が競合したのは2人だった。ロッテと楽天が指名した立教大学の荘司康誠投手は楽天、巨人と阪神が指名した高松商業の浅野翔吾外野手は巨人が交渉権を獲得した。
「会議終了後、監督はメディアに『今年のドラフトは何点だったか』と聞かれますが、本当の採点は何年も経ってからではないとできない。特に高校生の場合、一人前になるまでに時間がかかりますからね。浅野は大器に間違いないですが、来年からすぐ即戦力として活躍してもらうための指名ではないでしょう。阪神は外れ1位で中央大学の森下翔太外野手を指名しました。1、2年目は大卒の森下のほうが結果を残す可能性は高いですよね」(スポーツライター。以下同)
ドラフト1位で指名された選手がすぐ戦力外通告を受けるケースはないが、監督は数年も経てば変わる。ドラフトで誰を獲得したかは、監督生活に大きな影響を及ぼす。
「監督にとってはその年の勝利が至上命題。どうしても高校生より即戦力の大学生、社会人を望みがち。一方で、球団は将来も見据えて指名選手を考えなければならない。たとえば、ヤクルトの山田哲人や村上宗隆は小川淳司監督の時に新人でした。その小川監督が我慢強く起用して一人前の選手に成長し、次の真中満監督や高津臣吾監督の時に完全にチームの柱になって、優勝に貢献している。ドラフトの時に目先の即戦力を獲得して1、2年目に活躍してくれれば、小川監督は3度も最下位にならなかったかもしれない。球団にとって、小川監督のようなチームの未来を考慮してくれる人は有難いでしょうね」
ヤクルトは野村克也監督が率いた1990年から1998年の9年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝き、黄金期を作った。この時も1980年代のドラフト戦略が身を結んでいたという。
「1983年のドラフト2位で池山隆寛を指名し、巨人と近鉄にくじ引きで勝った。この時、武上四郎監督は小早川毅彦を望んでいたそうです。法政大学のスラッガーだった小早川は広島が2位で単独指名し、1年目に新人王になり、2年目以降も順調に成績を残しました。武上監督は翌年の4月に成績不振で辞任しましたが、もし小早川を獲得していたら、シーズン途中で辞めなくて済んだかもしれません。
一方、池山は関根潤三監督が就任した1987年からレギュラーで起用され始め、翌年から5年連続30本塁打でチームの顔に成長しました。三拍子揃った池山がいなければ、1990年代にヤクルト黄金時代が訪れたかはわからない。小早川は1990年代に入ると調子を落としていった。通算成績で比べると試合、安打、本塁打、打点の全てで池山が小早川を上回りました」