世襲、襲名とは親や師匠の芸や名前、地位などを引き継ぐことで広く一般においてある。だが、歌舞伎界で「市川團十郎」という名を継ぐことはほかのそれとは比較することのできない特別な意味を持つ。その理由とは──。
江戸時代初期の「かぶき者」がルーツ
日本の伝統芸能で重要無形文化財にも指定されている歌舞伎は、その名称の由来を「傾く(かたむく)」の古語にあたる「傾く(かぶく)」とされる。戦国時代の終わりから江戸時代初頭に、色鮮やかで派手な衣裳に身を包み一風変わった“かぶき者”を真似たファッションでの踊りが流行し、それこそが今日の歌舞伎のルーツとなる「かぶき踊り」だ。芝居と踊りと音楽──この3要素が三位一体となり人々を楽しませ、市井の観客がその文化を育み、一大芸術として昇華させた。江戸、明治、大正、昭和、平成、そして令和と、その時代の世相や趣味趣向を反映し、古典から新作まで実に700以上の演目で上演され観客を魅了し続けている。
伝統と革新を繰り返してきた市川團十郎家
歌舞伎界には音羽屋、高麗屋など数多くの屋号(家)があり、各屋号には錚々たる役者が揃っているが、市川家の成田屋がその始まりだ。1660年に生を受けた、初代市川團十郎が成田山(千葉県)を信仰したことからその名がついたといわれており、荒々しく豪快な「荒事」という新たな演出様式や、古典となる作品を創造するなど、常に歌舞伎界を牽引する存在となった。歌舞伎で思い浮かぶのが力強く形を決める「見得」。これも荒事を始めた初代團十郎が不動明王の姿を真似て生み出した演技ともいわれている。かっと大きく見開いた目で観客をにらむ「にらみ」は市川家だけに継承されるもの。江戸時代には、「團十郎のにらみを見れば、1年間は無病息災で過ごせる」と称され「荒人神」と呼ばれ崇拝されていたのである。「歌舞伎十八番」を市川家の家の芸として選定したのは七代目團十郎で、そのひとつ『勧進帳』は現在でも繰り返し上演される定番中の定番。こうしてたしかな演技力をもって、市川家の芸を継承し革新してきた「團十郎」の名は歌舞伎界の歴史にとって重要な存在となる。
命の限り懸命に歌舞伎に生きる覚悟
この大名跡は、「海老蔵」の次に襲名することが多く、その伝統は初代團十郎から連綿と続く。この名を継ぐことはすなわち歌舞伎界を担うことと同義。海老蔵の父が十二代目團十郎を襲名したのは1985年4月、38才でのことだった。2013年に肺炎で逝去した後、“團十郎不在”の時を経て、このたび9年ぶりに大名跡が復活することになる。
襲名発表の際、海老蔵は「歌舞伎界にとりまして、たいへん重い名跡と理解しております」「このうえは己の命の限り、懸命に歌舞伎に生きてまいりたい所存でございます」とその決意を口にした。