全国チェーン展開する有名飲食店の社長が、日課の掃除中に突如銃殺される……あまりに大胆不敵な犯行ながら、逮捕には9年も要した。逮捕された容疑者は特定危険指定暴力団、工藤會系の組員だった。“最凶暴力団”とも言われる工藤會とはどんな組織なのか。ジャーナリストの鈴木智彦氏がその内幕をレポートする。【前後編の後編。前編から読む】
工藤會は暴力団社会の異端児だ。
多くの暴力団は国家権力の強大さを熟知しており、当局とガチンコでぶつかろうとはしない。暴力を使って恫喝し相手を容赦なく殺しても徹底的な反社会的存在にはならず、最後の一線で権力や世論と迎合する。市民社会の中で無軌道に暴れ、拳銃をぶっ放し、抗争事件を起こしても、一般人を巻き込まないよう、彼らなりに気を遣っている。
「ヤクザは法を犯せど非道はしない。そもそも国を相手に喧嘩をすれば絶対に勝てない」(某独立団体トップ組長)
彼らの迎合は生き残るための智恵だ。
しかし工藤會だけは、暴力団の常道を無視し続けた。要求に従わない会社や社員の自宅に銃弾を撃ち込み、利益のためには一般人さえ容赦なく殺した。大東氏殺害の翌日にも殺された元漁協組合長の実弟が射殺された。この未解決事件にも、警察は工藤會の関与があったとみている。
最凶暴力団といわれる工藤會も当初は地元の博徒組織だった。大きく変貌したのは1987年6月、激しい分裂抗争を終結させ、殺し合いを続けてきた工藤会と草野一家が合流、工藤連合草野一家となってからだ。
企業襲撃は直後に開始された。同年10月12日、まずは北九州市内のホテルに殺鼠剤のクロルピクリンが撒かれた。12月21日には自販機の納入を断った健康ランドの駐車場に剥離剤を、翌年1月2日にはまたもクロルピクリンを散布し利用客151人に傷害を与えた。その2か月後には中国総領事館に散弾銃を撃ち込んだ。徹底抗戦の背景には1991年に施行された暴力団対策法がある。
警察は徹底取り締まりで抑えこみにかかった。他団体は先鋭化する工藤會を「長続きしない」と冷ややかにみていた。しかし徹底抗戦は継続され、組員たちは捕まっても完全黙秘で下獄する。上層部の指示は立証できず、未解決事件が常態化した。
反警察の言動は、反権力の言論人を引き寄せた。両者は「敵の敵は味方」の論理で連帯した。マスコミの一部を抱き込んで行なった言論工作は工藤會の十八番だ。
2003年8月18日、工藤會中島組の組員が北九州市の『倶楽部ぼおるど』に手榴弾を投げ込んだ際もそうだった。幸い不完全爆発だったが、ホステスの女性たち12人が重軽傷を負った。取り押さえられた実行犯が圧死したので、親交のあるマスコミ人は工藤會とタッグを組み、亡くなった組員の人権名目で反・警察キャンペーンを開始した。