人間は様々な感染症とともに生きていかなければならない。だからこそ、ウイルスや菌についてもっと知っておきたい──。白鴎大学教授の岡田晴恵氏による週刊ポスト連載『感染るんです』より、梅毒が世界に広がった歴史についてお届けする。
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15世紀末、突然ヨーロッパに現われた梅毒は、コロンブスの新大陸からの手土産であったという説が有力です。これを直接、証拠立てる確証はないのですが、ヨーロッパへの感染拡大と新大陸発見の時期が合うこと、15世紀以前のインディオの骨に梅毒とみられる病変があること、一方、ヨーロッパの人骨にそれが見られないことなどが根拠としてあげられます。
1492年、クリストファー・コロンブスはイスパニョーラ(現ハイチ島)にたどり着きます。スペインの支援を受けて、彼はアフリカ沿岸を通らずにアジアに到達する西方航路を目指していました。マルコ・ポーロの描いた黄金の国ジパングへの道は夢の航路、豊かなアジアへの憧憬の道。コロンブスの最初の航海は90名の乗組員と共にパロス港から出航、2か月をかけてバハマに到達。ここを目的地のアジア・インドと勘違いしたコロンブスは原住民をインディオ(インド人)と呼びました。さらに南下した一行はキューバ、ハイチに上陸。長い船旅に禁欲生活を強いられた乗組員たちは、現地の女性と性交渉を持ち、梅毒に感染したと考えられています。
そして、凱旋帰国したコロンブスがバルセロナで女王に謁見している間にも、船員たちは街に出て娼家に立ち入り、梅毒の病原菌を根付かせることになったのです。航海を終えた船員たちは報酬を受け取っては、次の仕事を求めて各地に散り、戦争が日常茶飯事であった当時、傭兵として戦地に赴いた者も多く、梅毒はヨーロッパへ確実に根を下ろしていきます。
1494年にフランス王シャルル八世(24歳)は、当時スペインの支配下にあったナポリを手中にするためにヨーロッパ各地から募った傭兵を率いてローマに入城。しかし、このときすでにスペインでは梅毒が流行の兆しを見せ、ナポリに駐在する兵士の多くはスペイン人でその周りにはスペイン人の娼婦が数多くいました。シャルル八世とフランス、オランダ、スイスからの混成部隊の傭兵らは、ローマからナポリに到着。さしたる戦いもなくスペイン人娼婦と交流したため、一気に傭兵らに梅毒が拡がり、この奇病のために壊滅する部隊も出ました。