多くの人でごった返す東京駅に、袖をたくし上げた羽生結弦(27才)が突如として姿を現したのは、11月5日の夕方だった。この日の東京の最低気温は11℃。道行く人は上着に手を通すなか、羽生はコートを手に持ったままである。
彼の後ろを歩くのは、羽生によく似た涼やかな瞳が印象的な女性で、黒髪ロングのストレートヘアを風になびかせ、彼の一歩後ろをついていった。その数時間前に、初のソロステージを終えたばかりの羽生は、やや疲労の色を残しながら、北へ急ぐ新幹線に飛び乗った。
7月にプロ転向を表明した羽生のリスタートは速かった。瞬く間にYouTubeやインスタグラム、ツイッターを開設し、練習風景をファンに公開。そして、11月4日から2日間にわたり、プロスケーターとして初の単独アイスショー『プロローグ』で華麗な滑りを披露した。
「タイトルや演技構成は、羽生さんが自ら考案。演出は当日の朝ギリギリまで考え抜いたというほど、こだわりが詰まった内容でした。通常アイスショーは複数のスケーターが順番に滑りますが、今回の出演者は羽生さんだけです。しかも休憩なしのノンストップ。たったひとりで8曲を滑り切るというのは尋常ではないプログラムで、体力的な負担は相当大きかったはずです」(フィギュアスケート関係者)
1曲目に披露したのは、2018年平昌五輪で金メダルを獲得したプログラム『SEIMEI』。4回転サルコウを成功させ、さらにトリプルアクセルの3連発という構成に、観客はいきなりスタンディングオベーション。拍手喝采だった。
「新プログラム『いつか終わる夢』では、振り付けを自ら手掛けたそうで、『夢だった世界初の4回転半の成功者になれず苦しみながらも、まだ皆の期待に応えたい』という心のジレンマを表現したそうです」(スポーツ紙記者)
観客を魅了する彼を見守っていたのが、冒頭の女性──羽生の母だった。羽生のスケート人生は、物心両面で彼女に支えられてきた。
「スケートは、コーチ代や衣装代などとにかくお金がかかる。あまりの家計への圧迫に、小学生の頃、スケートをやめるかどうか家族間で話し合いが行われたときには、お母さんが“私がパートを増やすから”と競技が継続できるよう支えたそうです」(羽生家の知人)
2011年、東日本大震災で仙台のホームリンクが被災すると、翌年、羽生は拠点をカナダ・トロントへ移す。このときも、母が同行した。
「2人はマンションで共同生活をしていました。お母さんは、食事や生活のお世話はもちろん、英語に苦手意識があった羽生さんに発破をかけて、語学の習得も促したそうです」(前出・フィギュアスケート関係者)