10月1日に他界した不世出のプロレスラー、アントニオ猪木さん(享年79)。死後、彼の全盛期の思い出を語る関係者は多いが、無名時代を知る人は少ない。その1人が猪木さんの師・力道山の妻で未亡人となった田中敬子さん(81)だ。10月15日、ノンフィクション作家の細田昌志氏が、亡き夫の眠る東京・池上本門寺で墓参りを終えた直後の敬子さんに、猪木さんとの60年に及ぶ交流について聞いた。【全4回の第3回。第1回から読む】
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「馬場さんはお兄さん」
12月8日の夜、力道山は赤坂のクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で暴漢に刺され、1週間後の12月15日に帰らぬ人となる。まだ39歳だった。
22歳の若さで未亡人となった彼女と、力道山門下生のアントニオ猪木、ジャイアント馬場の関係も幾分変化が生じる。
──敬子さんは22歳で「力道山未亡人」となります。当時を振り返ると、どんな心境でしたか?
「心境も何も結婚半年で未亡人でしょう。お腹には娘もいましたし、主人の事業を私が引き継ぐことになって、泣いてる余裕もなかったというか」
──力道山はプロレス以外にも多くの事業を手掛けていましたが。
「それを全部、私が引き継いだんです。でも、会計士さんと帳簿を見たら負債だらけ。総額40億円。びっくりしちゃって。主人の個人的な信用で借りていたものばかりですから、亡くなった途端に債権者がワーッと押しかけて……。リキ・エンタープライズ以外は全部処分しました。日本プロレスも別会社になったし」
──ところで、敬子さんにとって(1999年に亡くなった)ジャイアント馬場さんは、どういった存在でしたか?
「馬場さんが3歳上で、お兄さんのようでした。馬場さんとの関係も近かったですよ。リキ・アパートに居を構えて(馬場夫人となる)元子さんと住んでいましたから」
──そうなんですね。
「元子さんはスラっとした美人でね。『なかなか結婚出来ない』って馬場さんから悩みを打ち明けられたこともあります。アパートの中には居住者用のプールがあったんですけど、夏になると元子さんはウチの娘と遊んでくれたりして。“いいお嫁さんになるだろうなあ”って思ってました」