11月11日、“マサカリ投法”でプロ通算215勝をあげた村田兆治氏が、東京・世田谷の自宅火災で亡くなった。72歳だった。
1970年代から1980年代にロッテのエースとして活躍した村田氏は、1990年に40歳で引退した。その後の村田氏がライフワークとしたのが離島での野球普及活動だ。2008年からは離島の中学球児の全国大会「離島甲子園」を立ち上げた。
2017年8月、石垣島での大会に密着したこともある。現地で本誌・週刊ポストの記者の姿を見つけると「よく来てくれたな」と満面の笑みで迎えてくれた。
「こういう大会が始まったのは、新潟・粟島の人たちから“子供に本物の剛速球を見せてほしい”と手紙をもらったのがきっかけ。島を訪れると部員が15人しかいないチームだった。紅白戦もできない離島の厳しい現状を知った。だからスーツを脱ぎ、ワイシャツ姿でピッチングを披露した。子供たちを全員、打席に立たせ、本気でボールを投げた。本物の凄さを見せて、“本気でやっていると、いつかきっといいことがある”と伝えたかった」
そう話す村田氏の声は力強かった。
石垣島での大会でも、打席に立つ中学生に向かって全力投球していた。そして、「逃げるな!」とマウンドから怒鳴る。いつも本気だった。村田氏が亡くなる直前まで、こうした離島での活動に本腰を入れていたことは、前述の通りだ。
そして突然の訃報で思い出されるのは、ロッテの監督として村田氏を育てた400勝投手・金田正一氏の葬儀での姿だ。
2019年に亡くなった金田氏は生前、本誌・週刊ポストの企画で「自分の葬式の弔辞は村田兆治に読んでもらいたい」と話していた。金田氏の遺族の希望もあって、実際に村田氏が弔辞を読むことになった。
葬儀・告別式の直前に、「ポストのおかげでマウンドに上がるより緊張しているよ」と苦笑いしていた村田氏だが、原稿は用意せず、遺影をまっすぐ見つめながら、恩師に別れを告げた。