日本代表が活躍を続けるサッカーW杯。27日夜、テレビ朝日で中継された『日本✕コスタリカ』戦は世帯平均視聴率42.9%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)を記録。多くの人は熱狂的に日本代表を応援している――。だが、それが当然という空気に作家の甘糟りり子氏は違和感を覚えるという。
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サッカーワールドカップ日本、コスタリカ戦が行われている時、私は手に汗握りながら『鎌倉殿の13人』を観ていた。鶴岡八幡宮での実朝暗殺の回だ。日本チームの敗戦はスマホが教えてくれた。
日本チームが強豪国ドイツに勝利を収めた23日夜も、中継は見ずにAmazonプライムでアメリカのドラマ『I LOVE DICK』を楽しんでいた。かなり深い時間にもかかわらず隣の家から子供たちの歓声が聞こえてきたので一瞬何事かと思ったが、すぐにワールドカップの日本戦を家族で見ているのだろうと気がついた。
あの翌日のオンラインミーティングでは、画面の相手は挨拶代わりに「勝ちましたね~」ときた。ミーティングが終わってネットニュースをチェックしたら、社会学者の古市憲寿さんが朝の情報番組の生放送で50分間黙ったままだったという記事を目にした。スポーツにあまり興味がない古市さんは日本代表の勝利を振り返るスタジオの中、ずっと何も話さずにいたという。
普段の彼の主張はさておき、こういう存在は大切ではないだろうか。サッカーや日本代表に何の関心がない人をわざわざ画面に出すことは必要だと思うのだ。
50分経って話を振られた古市さんは「水を差すつもりはない。自分が関心がないだけ」といっていたそうだが、私も水を差すつもりもケチをつけるつもりもない。強豪国に勝ったのは純粋にすばらしい。しかし、オリンピックだとかワールドカップだとかに染み込んでいる熱狂的に自国を応援するのが当然という空気がなんだか苦手だ。
かつての映画宣伝の常套句「全米が泣いた」みたいに「日本中が歓喜」とかいわれてしまうと、ひねくれ者の私はしらけてしまう。別にそんなに喜んでないし、といいたくなる。
私は古市さんと違って、スポーツはするのも見るのもわりと好きなほう。どちらかといえば個人競技が好きだ。チームスポーツのすばらしさも有意義なところも頭ではわかっているつもりだが、個人で戦っている人のドラマに惹かれる。一時テニスに熱中していて、グランドスラムの中継が楽しみだった。好きな選手が日本人選手と対戦していたとしても、気にせず好きな選手を応援した。それはオリンピックだったとしても同じだった。日本のメダル獲得数なんてものに興味がわかなかったから。
パブリックビューイングで日本代表を応援したこともあるが…
などとかっこつけてみたけれど、2010年、ワールドカップサッカー南アフリカ大会の時は友人に誘われてパブリックビューイングで観戦した。ブルーのTシャツを着て、頬には日の丸のシールを貼って、友人と肩を組みながら「ニッポン!ニッポン!」と連呼した。駒野のあのPKが外れた時はみんなで泣いた。オレンジ色のベストを着たままの中村俊輔が映し出された際は胸が痛んだ。彼の紆余曲折を知ったのはほんの数日前だったが。