最終回が目前に迫ったNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。ドラマを観て、鎌倉幕府と日本最大の暴力団・山口組の類似性を指摘するのは、フリーライターの鈴木智彦氏である。鈴木氏が、分析する。【前後編の後編。前編から読む】
実際、『鎌倉殿の13人』を観ながら、何度、山口組抗争を思い出したかしれない。
古い博徒組織は疑似血縁制度で結ばれ、赤の他人が盃を介して親子、または兄弟となり一家を形成する。「組」はもともと土木建築業で使われ、明治以降、ヤクザが表企業に転身する過程で混在するようになった経緯がある。組織名称をみても分かる通り、ヤクザ史の中で山口「組」は後発だ。大正四年、神戸市内の港湾労働者50人を集め、港湾荷役人夫供給業『山口組』が誕生した。今も続く山口組の分裂抗争は、皮肉にも旗揚げから100年の節目に発生している。
二代目を継いだのは実子で、人夫供給に加え、興行や中央卸売市場の利権、劇場の用心棒などをしていた。彼は浪曲興行のトラブルで刺され、その傷によって早世してしまう。
山口組が現代暴力団に変貌したのは、田岡一雄三代目組長の時代だった。昭和21年、わずか33人でのスタートである。鎌倉幕府でいえば源頼朝(大泉洋)になるだろう。武士もヤクザも、暴力で相手を屈服・滅亡させて成立した政権は強く、求心力も高い。
戦の勝利を重ねて誕生した鎌倉幕府同様、山口組も殺しを繰り返して成長した。
昭和31~32年の別府抗争と小松島抗争、35年の青い城事件、36年の夜行列車刺殺事件、37年の夜桜銀次事件、38年の広島抗争、39年の松山戦争など、毎年のように抗争を勃発させ全国侵攻を続けた。田岡組長のカリスマ性が山口組の指針だった。その存在は山口組内で神格化され、現六代目山口組も、三代目時代への原点回帰を掲げている。
落馬で突然死をした頼朝同様、田岡組長も志半ばで亡くなってしまう。続けて跡目候補だった腹心の山本健一若頭も跡を追うように死亡し、山口組は後継者問題を巡って紛糾した。
暴力団組織の強みは独裁と専制政治だ。器量のある親分が頂点に立てば、組織は快進撃を続け飛躍的に成長する。一方、多数決で運営すれば、どうしたって消極策が選ばれやすい。ヤクザに民主主義などナンセンスでしかないが、田岡組長は自らの死後を予見するように、最高幹部たちによる合議制を作り上げていた。
その寄り合いで決定しかけた跡目をひっくり返したのは、田岡夫人である文子氏だった。彼女は「亡き主人の遺言により竹中正久を四代目とする」と宣言、反対派を押し切って襲名式を挙行した。会場には田岡組長の霊代として出席した。まさに北条政子(小池栄子)さながらだ。