激動の2022年が幕を閉じようとしている。思い返せば今年は政財界や芸能界で多くの著名人がこの世を去った。愛して止まないあなたへ。野末陳平氏(放送作家)がアントニオ猪木さん(10月1日没、享年79)へ“最後の手紙”をしたためた。
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もし今、君と元気に話ができるなら、「あの日、1時間もの間、なぜお互いに何も喋らなかったんだろうね」と語りかけたい。
あれは長崎の五島列島で新日本プロレスの巡業をやった時のことだった。興行が始まる夕方までやることがなくて暇だった昼間、君は僕に「釣りでも行きますか」と声をかけてきたんです。
二人とも釣りなんてしたことないのに、岩場だらけの危ない場所で、島の漁師に聞いて餌をもらって釣り糸を垂らした。野次馬も釣り人もいない岩場で、二人きりで無言の1時間を過ごした。
君も話しかけないし、僕も話しかけない。釣りに夢中だったわけだけど、結局何も釣れなかった。僕はこの不思議な時間のことを、「せっかく猪木と二人きりなのにもったいなかった」と今でも思い出します。
そしてもう一つ、僕には聞きたいことがある。
「1983年6月2日、蔵前国技館でのホーガン戦の真相はなんだったのか。君はどこまで意識があったのか」と。
僕は当時、新日本プロレスのコミッショナーを務めていて、重要なタイトルマッチでは勝者に賞状を渡すために、必ず本部席に座っていた。
試合中、ホーガンの一撃でリング下に転落、気絶した君は仰向けで失神KO負けしました。猪木の勝利を予想していた会場全体は大騒ぎになり、試合の大体の流れを予測しているレフェリーや対戦相手のホーガンでさえも大慌ての様子だったのを今でも覚えています。
結局、弟子たちの緊急手当ての後、担架に乗せられて救急車で運ばれたけど、会場は収拾がつかない状態で、静まるまで10分くらいかかった。
「猪木失神KO」はその後、伝説となり、今でも諸説渦巻いている。医者のなかには、「失神した人間が舌を出すわけがないだろう」と言う者もいたしね。
君は事件以後、最後まで真相を語りませんでしたし、僕も生前訊ねることはできませんでしたが、「もう昔の話だからいいんじゃない? 実は途中で意識を取り戻していたんじゃない?」とやっぱり聞きたかったなあ。
政治家でもあった君は、人間としても魅力的でした。参院選初出馬の時に君が立ち上げた「スポーツ平和党」。スポーツを通して平和を実現するとの政治信条をわかりやすく伝えたけれど、僕はそれでは票が集まらないと踏んでいた。それでも当選したのは、党名以上に、君という存在の影響力が大きかったのだと思います。