“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。第4話は敬子が小学生の頃の記憶を追跡する。【連載の第4回。第1回から読む】
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実は“国家事業”だった
「健康優良児」──高齢者から時折聞かれる昭和の言葉である。
口にするのは決まって体格のいい人物ばかりで「俺も昔は健康優良児だった」「私も健康優良児に選ばれて」と彼らは郷愁を滲ませながら、幾分誇らしげに言う。「そういう顕彰があったのか」と思うくらいで、筆者はその実相についてまったく知らずに来たし、さしたる関心も持たなかった。
本シリーズの主人公である田中敬子も「私はね、健康優良児だったの」と言った。聞き流しかけたが、本人の証言である以上、改めて往年の書籍や新聞記事を渉猟することにした。
よくよく調べると「健康優良児」は抽象的な概念ではなく、実体をともなうもので、幾許かの事情を含んで始まった“国家事業”だった。筆者はそのことを初めて知った。
1930(昭和5)年に「日本一の桃太郎を探す」という至上命題のもと、朝日新聞社が立ち上げたのが発端で、旧文部省と各都道府県の教育委員会が後援というお墨付きを与えてスタートした「官民合同のメディアイベント」だった。正式名称は「全日本健康優良児童表彰事業」。身長、体重だけでなく、運動能力や学習能力まで審査の対象となり、優良児童の発表と同時に「健康優良学校」も併せて選ばれた。新聞購買の拡大につなげたかった意図が読める。
表彰式は毎年11月3日、今でこそ文化勲章の授与等の行なわれる「文化の日」だが、戦前は明治天皇の誕生日「明治節」だった。満州事変前年のこの時代、強い日本の子供と学校を顕彰する目的があったのは、賞の性格上疑いようがない。春の「選抜高等学校野球大会」と、夏の「全国高等学校野球選手権大会」と類似している気がしないでもなく、同様に朝日新聞社が主催している共通点から、無関係ではないのだろう。
敗戦後は劣悪な食糧事情もあって中止されるが、1948年に再開。戦前の「強い日本児童の顕彰」というイデオロギーから一転して、「戦後の発育良好児童の顕彰」と性格を幾分変えながらも、国の恒例行事として定着する。むしろ、戦時下の切迫した空気から解放された戦後の方が、学校と子供を巻き込みながら幅広く浸透する土壌を提供したのかもしれない。「優越感と劣等感を招く」という理由から「健康優良児」は1978年に、「健康優良校」も1996年にそれぞれ廃止されるが、後者が平成まで続いていた事実が、そのことを端的に証明している。