「先生」──歌謡界の女王・美空ひばりは宮田輝をそう呼んで慕っていた。朝鮮戦争真っ最中の1951年1月3日、『紅白歌合戦』はNHK第一スタジオでラジオ番組として始まった。ちょうど2年後、テレビの実験放送を兼ねた第3回を皮切りに宮田は計15度も司会を務めた。彼なくして、令和の今も続く怪物番組は語れない。
戦時中の1942年10月、日本放送協会(NHK)に入局した宮田は約1年半を名古屋放送局で過ごした後、1944年に東京へ赴任。4か月に及ぶ軍隊生活も経験していた。テレビが急速に普及していく時代に、宮田は七福神の大黒天のような笑顔と朴訥なしゃべりで視聴者の懐に入っていった。彼は自らを脇役と心得ていた。
〈ぼくは額縁。紅白の歌い手さんは、中の立派な絵。自分はその絵にふさわしい額縁になる〉(1966年11月18日号/週刊朝日)
当時、台本には歌手名と曲名しか書いていなかった。宮田は綿密な取材と準備で、歌と歌の間をつないだ。1971年、デビュー7年目で初めて紅白の舞台に立った五木ひろしは今も感謝を忘れていない。
〈女手一つで育ててくれた母に支えられ、苦しかった下積み時代を乗り越えて開花した僕の物語を語る司会の宮田輝さんの名調子に導かれ、「よこはま・たそがれ」を歌い始めた時は、感激で胸がいっぱいになりました〉(2021年10月6日付/読売新聞)
宮田は本番直前、街へ赴いて大晦日の空気感を味わってから司会に臨んだ。その庶民感覚が雲の上のスターと視聴者の架け橋となった。芸能界の酸いも甘いも知り尽くしたひばりも、宮田には心を許していた。
〈先生にお会いするとすぐ甘えたくなっちゃうの。どういうのかな。張りつめていた気持ちに、ゆとりができるの〉(1971年1月7日号/週刊平凡)
本番が終わると、宮田は数十人のスタッフを家に招き入れて朝まで宴会を続けた。1972年の紅白の後には、急遽参加した美空ひばりと彼女の母親を家の中で胴上げしたという。翌年を最後に紅白から退いた宮田は度重なる自民党の説得に応じ、参議院選挙に立候補。3度当選し、在職中の1990年に死去。今は、テレビの形をした墓石の下で眠っている。
(文中一部敬称略)
構成・文/岡野誠
※週刊ポスト2023年1月1・6日号