臙脂(えんじ)のユニフォームと襷で箱根路を駆け抜ける早稲田大学。正月の第99回大会には47回連続92回目の出場を果たす名門中の名門だが、その「黄金時代」がいつかと問われて、1990年代前半と答える人は多いだろう。オツオリ、マヤカといったケニア人留学生ランナーを擁する山梨学院大と覇を競った当時の早稲田大の中心にいたのが、花田勝彦、櫛部静二、武井隆次の「早大三羽烏」だ。その3人の現在地は、大きく異なっている。
前回13位に沈んだ母校の再建を託され今年6月から早稲田大監督に就任した花田、城西大監督として2年ぶりの本大会切符を勝ち取った櫛部に対し、2人の戦いを予選会の解説の立場で見守ったのが武井だった。武井はいま指導者の立場にあるが、監督として箱根駅伝出場を目指しているわけではない。三羽烏のなかでも箱根路で最も安定して結果を残した武井は、いま何に取り組んでいるのか。そして、当時をどう振り返るのか──。
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99回を数える箱根駅伝の歴史のなかで、4年連続で区間賞を獲得したランナーは8人だけである。そのうちのひとりが武井隆次だ。早稲田大学在学時の同級生、花田勝彦と櫛部静二とともに「早大三羽烏」と呼ばれた武井は、往年の箱根ファンにとって忘れられない名ランナーである。
早大三羽烏のうち、花田は母校・早稲田大学、櫛部は城西大学の監督として、正月の99回大会に挑む。一方の武井は現在、すみだランニングサポートクラブの監督として、初心者から上級者まで幅広い層のランナーの指導にたずさわっている。
「私が通った中学校が廃校してしまい、跡地を利用した競技場で指導をしているんです。陸上を通して、地元を盛り上げたいな、と」
指導者となった今、彼は箱根の思い出をこう語る。
「箱根で勝った喜びよりも、負けた悔しさのほうが記憶に残っていますね」
三羽烏は、入学した1990年度の第67回大会から4年連続で箱根を走る。8年ぶりの総合優勝を成し遂げた3年時には3人そろって、区間新を更新する快走を見せた。三羽烏が最上級生になり、2学年下には日本を代表するランナーとなる渡辺康幸らがいた。早大の連覇はかたいと見られていた。しかし、とキャプテンとしてチームを率いた武井は言う。
「私自身が本調子ではなく、自分の調整で精一杯で、キャプテンとしての役割を果たせなかった。もっと自分に余裕があれば、チームメイトを気遣えれば……。いまも後悔があります」
花の2区──。1区を走るスピードランナーの流れを引き継がなければならない上に、難所である「権太坂」があり、各大学のエースが集う区間である。沿道の観衆も多い。箱根を目指すランナーにとっても、ファンにとっても特別な区間である。武井は言う。
「花田君は入学時から4年になったら2区を走ると宣言していたんです」
最後の箱根では、三羽烏のひとりである花田が2区に名乗りをあげた。インターハイで1500メートルと5000メートルの頂点に立った武井と、3000メートル障害王者の櫛部に対し、花田は無冠のまま早大に入学した。三羽烏と呼ばれながら、実績に劣った花田は努力に努力を重ねて、2人に肩を並べた。4年生になり、エース区間をになう実力者に成長していた。一方で、天才型のエース櫛部は1年目、2年目に走った2区を3年目にして、ルーキーの渡辺に譲っていた。花田と櫛部、そして渡辺。早大の2区は誰が走るのか。メディアの注目を集めた。武井は18年前の箱根を悔やむ。
「チーム内の争いが激しくて、みな疲弊してしまっていた」