“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。第6話は敬子の「現在」の日常を明らかにする。【連載の第6回。第1回から読む】
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実は2006年から“看板娘”
JR水道橋駅西口を出て、東京ドームを背に専修大方向に1分ほど歩くと、新日本プロレスのオフィシャルショップ「闘魂SHOP」はある。
店内に入ると、10万円相当のIWGPチャンピオンベルトのレプリカをはじめ、Tシャツ、ポスター、バスタオル、ポストカード、カレンダー、応援メガホンが所狭しと並べられ、ビッグマッチのチケット先行販売の日ともなると、行列は店を突き抜けて歩道にまで達する。店の奥に設えられたレジには、30代と思しき男性スタッフの傍らに、新日本プロレスのジャンパーを着た白髪の女性が立っていた。田中敬子である。
筆者は彼女が隠棲しているどころか、闘魂SHOPで働いていることを取材の過程で知った。出勤は月に一度シフトが決められ、週3日、月10日以上は出勤している。2022年12月21日のこの日も、午後1時~5時までの4時間、孫のような若い店員と並んでレジに立って接客をしたり、商品棚を見て回ったりしていた。
「別にたいしたお金になんかならないのよ。ただね、家にずっといたってすることもないし、毎日飲み歩くわけにもいかないでしょう。だから、こうして真っ当な社会人としての生活もしておかないと」
そう言って笑っている横で、小学生らしき少年がレジの前に立った。手にはオカダカズチカのTシャツを持っている。すると敬子は「はい、いらっしゃいませ」と慣れた手つきでTシャツを黒のビニール袋に詰めて、少年から金を受け取り、すっと釣りを渡した。筆者が眼を見開いていると、「まあ一応、これくらいのことは出来るんです」と悪戯そうに言った。少年はこの女性店員が、日本のプロレスの実質的な創作者である力道山の夫人だったことをおそらく認識していないだろうし、もしかしたら、力道山自体、知らないのかもしれない。
「多分、若い人は私のこともそうだけど、主人のことも知らないかもしれません。名前くらいは聞いたことがあるのかもしれないけど……。今は棚橋(弘至)君とかオカダ君とか、若い選手のファンって本当に多いのよねえ」
しばらく立ち話をしていると「敬子さん」と初老の女性が声をかけてきた。
「あら、お久しぶり」
「今日、こっちまでたまたま足を延ばしたんで、敬子さんいらっしゃるかなって思って来たんです。よかったわ、会えて」
「ありがとうございます。今週はね、土曜24日と、年内は26日が最後」
女性は、敬子としばし歓談して程なく去っていった。
「ああいう方もいらっしゃるの。私がいるときに来て声をかけて下さって。ただ、昔の方が多かったかな」