“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。第7話では敬子が年頃の中学生時代に記していた貴重な日記が発掘された。【連載の第7回。第1回から読む】
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意図しない中学校へ進学することに
小学校のときは目立つ存在だった。成績優秀で運動神経も抜群、運動会ではクラス対抗リレーのアンカーにも選ばれたし、長身をいかしてバレーボールもバスケットボールもすぐに覚えた。6年生のときには、朝日新聞社と神奈川県の教育委員会が主催する「健康優良児コンテスト」にエントリーし、あれよあれよと審査を通過、横浜市の代表となり、ついには神奈川県代表にまで選ばれた。新聞に大きく報じられたことはすでに述べた。
自分自身は何一つ変わっていなかったが、周りはそうはいかない。クラスメイトは羨望の眼差しで敬子を見た。教師もどこか遠慮気味に接した。あるとき繁華街を歩いていると「あの子、田中さんところの敬子ちゃんよ」と知らないおばさんに指を差されることもあった。薄気味悪くもあったが、「それだけ私が有名ってことよ」と言い聞かせると、そう悪い気もしなかった。生来の楽天家気質なのである。
隣家の米軍将校の自宅に相変わらず入り浸っては、生きた英語に触れていた。最初はまったく聴き取れなかった英会話もシンプルなものなら理解出来るようになっていた。嬉しくなって、幼い弟たちを相手に英語で話しかけたら、さすがに父に怒られた。それでも懲りずに英語を話した。それどころか、近所に住む中学生に英語を教えることもあった。
横浜市立間門小学校卒業後は、同じ学区内の横浜市立大鳥中学校に進学することになる。「小学校の卒業なんて別れもへったくれもないわね」とクラスメイトと軽口を叩き合っていたある日、家に帰ると、父の勝五郎が「根岸中に行け」と言った。
「何で大鳥じゃだめなの?」
「根岸の方が総じて学力が高いからだ」
「でも、根岸中は学区外でしょう」
「構わん。父さんに任せておけ」
勝五郎はそう言うと、敬子の住所だけ知り合いの家に移して、表向きそこから通学させているように体裁を整えた。勝五郎は言った。
「お前の学力はもっと伸びる。そのために大切なのは環境だ。環境のいいところに行けば、もっと伸びる」