NHK大河ドラマ『どうする家康』でも話題の徳川家康といえば、戦乱を収めた後、約260年にわたって続く江戸幕府を起こした英雄だ。織田信長、豊臣秀吉とともにその功績から戦国三英傑と称される。戦乱を鎮めて世を統べた家康とは、どんな人物だったのか。教科書には載っていないその人となりを、『徳川家康という人』(河出新書)の著者で東京大学史科編纂所教授の本郷和人さんに聞いた──。
石橋を叩いてなお渡らない慎重派
【性格】「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」に表出するように、家康はがまん強い一方、小心者の一面も
「家康をひと言で表すと、平凡な男」と語る本郷さん。
「家康はものすごい才能の持ち主ではありませんが、努力を怠らない人でした。だからこそ最後は天下人になれたのだと思います。それに、家康はあまり人を殺さない。いわば市民的な価値観を持っていたのだと思います」(本郷さん・以下同)
また、がまんのできる人でもあったという。
「彼を語る上でよく言われる、『石橋を叩いてなお渡らない』という慎重に慎重を期す発想も家康ならでは。関ヶ原の戦いの後、大坂の陣で豊臣を滅ぼすまで、15年以上も待ったのは、彼の慎重に慎重を重ねる性格ゆえだったのかもしれません」
さらに、やや小心者の一面も持ち合わせていたという。武田信玄との三方ヶ原の戦いでは、九死に一生を得たが、恐ろしさのあまり馬の上で脱糞したというエピソードがある。
「『くそではない、腰につけていた非常食用のみそがついたのだ』とごまかしながらも、家臣に『汚れが目立たないよう、黄色の“ふんどし”を使うといい』と、アドバイスしたといわれています」
自分の目で見て“使える人”を育てていた
【仕事】家康が天下を取れたのは、優秀な家臣たちが、懸命に支えていたからといわれるが……
家康に仕えた代表的な譜代大名は「徳川四天王」と呼ばれる。
「彼らは『精強無比で忠実なる三河武士』と伝説のようにいわれています。ただ、実際は異なるのではないかという懐疑的な見方をする人もいます。
というのも、家康はケチで有名です。どーんと気前よく領土を譲ることはなく、少しずつ分けていくという、堅実な家康らしいやり方をしている。四天王だからと格別に厚遇することもなかったため、後世に伝えられているほど家臣が忠誠を尽くしていたわけでもなさそうです。とはいえ、家康は自分の目で見て、『使えるな』という人を育てています。人事の基本は能力と考えていたのでしょう」