夢はプロ野球選手
監督に話を聞いたあと、投手の練習メニューが落ち着いたタイミングを見計らって、コーチに補助してもらいながら、山口へのインタビューも実現した。たどたどしくはあるものの、意思の籠もった言葉を発する山口は、昨秋の葛藤をこう振り返った。
「甲子園のマウンドに立てて良かったという気持ちはあったけど、僕のせいで負けてしまった。足りないところがいっぱいわかった。だけど、自分の耳が聞こえないことで、自分の思いがなかなか伝えられなかったりすると、弱気になってしまって……。それで一度は、『野球をやめたい』と口にしてしまいました。鍛治舎監督から怒られたり、LINEで励まされたり……。とにかく『最後までやれ』と厳しい言葉を言ってくださいました。友達も『帰ってこいよ』とか、『みんな待ってるよ』と言ってくれた。『耳が聞こえなくても、野球をやっているのはすごいことだよ』と励ましてくれる友達もいました。強い気持ちで野球をやって、今度は僕らの代で甲子園に行きたい。最後まで頑張ろうと思いました」
鍛治舎監督は自分を特別扱いせず、他の部員と同じように正面から向き合ってくれる。時には厳しい言葉を投げかけられるが、それが山口にとって心地良い。
「自分だけが怒られているわけじゃなくて、他の友達も怒られている。それでも頑張る姿があるから、自分も反省すべきところは反省して、頑張ろうという気持ちになる」
サイレントの世界に生きる山口が、野球をする上でどれほどのハンデを背負うことになるのか、想像すらできない。
「野球をプレーすることにおいては、自分は耳が聞こえないことがそれほどハンデになるとは思っていないです。自分は野球が大好きですから。もちろん、指導者の方々や友達の協力がないと続けられないですけど、耳が聞こえないだけでボールは投げられるし、手がないとか、足がないとか、そういう障害があったとしてもスポーツをやるのは良いことだと思っています」
小学生の頃から、「夢はプロ野球選手」と言い続けてきた。
「聾学校に通いながら、小学生のチームではお父さんが監督でした。だから問題はなかった。中学からは中濃ボーイズで、お父さんに助けてもらうことはできない。コミュニケーションがとれるか不安はあったんですけど、周りの友達が自分の耳のことを理解してくれていて、監督が指示した練習メニューなどをわかりやすく教えてくれた。県岐商に入学したのは、甲子園で戦う姿を見たから。将来、プロに行ければ最高ですけど、今の実力ではまだまだ。それよりも鍛治舎監督を甲子園に連れて行きたいという気持ちが強い」
母校の監督に就任した際、鍛治舎監督は学校の120周年と野球部の創部100周年にあたる2024年を目処に勇退することを明かしていた。残された時間は1年半だ。
鍛治舎監督は言う。
「来年を区切りにしようと考えてはいるんだけど、それを言ってしまうと、選手が集まらない(笑)。だから、『100勝するまで』と目標を新たにしました」
通算60回の甲子園出場を誇り、春3回、夏1回の全国制覇を誇る伝統校の県岐商はこれまで87勝を挙げている。サイレントの世界に生きるエースが、きっと白星を積み重ねてくれることだろう。
【了。前編から読む】