YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)などでドラマーとして活動した高橋幸宏さんが1月11日に亡くなった。70才だった。影響を受けたという作家の甘糟りり子さんが高橋さん、YMOについて綴る。
* * *
YMOの高橋幸宏さんの訃報を知った時、自分でも不思議なぐらいショックだった。少しの間、呆然としてしまった。私はそんなに YMO及び高橋幸宏の熱いファンだったのか?と自問自答した。悲しさよりも喪失感が大きかった。昭和の終盤の80年代、東京が急速にはなやかになっていったあの頃が確実に過去になってしまった。
InstagramやTwitterやFacebookの私のタイムラインには友人知人たちによる哀悼のコメントが後をたたない。挙げられる写真のレコードジャケットは圧倒的に YMOの『ソリッド・ステイト・サバイバー』が多いが、サディスティック・ミカ・バンドのものだったりソロのものだったり、 YMO以外の「ユキヒロ」に想いをはせる人も少なくない。
YMOが世の中に現れた1978年当時、私は十四歳だった。初めて彼らの音楽を耳にした時の衝撃は今でもあざやかに覚えている。「電気の音しかしない!」と興奮した。街で流れている歌謡曲とも、その頃かぶれ出したアメリカのヒット曲を中心とした洋楽ともまったく違う打ち込み音を聞く度に、自分の感覚が新しく更新されていく気がした。
音だけではない。彼らがトレードマークにしていた人民服が最高におしゃれに見えた。『ソリッド・ステイト・サバイバー』のジャケットで3人が着ていた、赤い立ち襟のスーツだ。明治時代のスキーウエアにヒントを得て高橋さんがデザインしたものだという。70年代の終わりといったら、日本の若者はアメリカ文化が憧れの対象だった。アジア人であるということに劣等感を抱くことさえ思いつかないぐらいの距離が日本とアメリカにはあった。
そんな時代に、「アメリカやヨーロッパで高評価を受けた」という触れ込みとともに、エキゾチックな人民服を着て、自らを「イエロー」と名乗り、凱旋というドラマに乗って現れたのだ。子供でも大人でもない時期の私はそうした物語込みですっかり熱中した。テクノポップなる単語の語感さえも新しくかっこいいものとして響いた。テクノポップとはテクノミュージックとはまた別の日本独自の音楽ジャンルで、その象徴がYMOだった。
取り憑かれたように彼らのレコードを聞いた期間はそう長くはなかったけれど、YMOに受けた影響は大きい。私は音楽を志したことはない。しかし、物書きとしての自分を形作る要素の一つは、確実にYMOにある。湿ったところがまったくないスタイルだ。情緒に流されないから逆に受け手の情緒を刺激すると学んだ。わざとらしい笑顔より無表情の方がずっと洗練されているということも教わった。