“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。第9話では敬子が女子高生時代に出会った大スターとの一瞬の邂逅を振り返る。【連載の第9回。第1回から読む】
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第9話「ファンレター」
1957年4月、田中敬子は有数の進学校である神奈川県立平沼高等学校に入学した。外交官を目指して勉強に励みながら、軟式庭球部でも毎日クタクタになるまで練習した。
勉強と部活に忙しく、中学生のときのように孤独を感じる暇はなかった。何しろ進学校である。学力は総じて高く、優等生気分だった敬子の鼻はあっさりへし折られた。
五月二十日(月)
ここのところ少しうんざりしているのよ。だって新入生テストの席次が決まったのよ。八二番目よ。総合点五〇〇点で私の得点は三八〇点よ。七二%しかとれていないのよ。通信簿に左右されてしまうでしょう。困ってしまう。数学と国語は平均点より少ないの。がっかりして何もしたくなくなっちゃうわ。六月に中間考査があるでしょう。バンカイね、断然!(日記より・原文ママ)
多くの高校生がそうであるように、敬子の興味の対象も変わった。洋画を見るようになり、海外の人気俳優に惹かれるようになった。『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーンと相手役のグレゴリー・ペック、『カサブランカ』のハンフリー・ボガード、『旅情』のキャサリン・ヘップバーン……。数か月前まで市川雷蔵や阪東妻三郎を追いかけていたのが嘘のようだ。
『キネマ旬報』の巻末に「あなたも海外スターにファンレターを送ろう」とあった。これはいい。英文でファンレターを書いてみよう。英語の勉強にもなるはずだ。敬子は難しく考えず、便箋に何の気なしに書いては次々と投函した。主だったスターには書き送った。「遠く日本から応援しています」といった他愛もない内容だが、国際郵便を出すたびに外交官に一歩近付いた気がした。
返事が来ればいいけど来ないに決まっている。別に来なくていい。本人が手に取ってくれさえすればいい。──そう思っていたら、自宅の郵便受けに英文のレターが入っていた。何と返事が来たのだ。急いで開封すると、サイン入りのプロマイドが入っていた。チャールトン・ヘストンからである。