現役時代は南海などで活躍し、プロ野球歴代3位の567本塁打を放った門田博光さんが74歳で亡くなっていたことが1月24日、分かった。兵庫県西部で療養中のことだった。1970年に南海に入団した門田さんは、一度は右アキレス腱断裂の大ケガで現役続行が危ぶまれたものの、見事に復活。1988年には40歳にして本塁打、打点の二冠王に輝き、「不惑の大砲」と呼ばれた。
現役時代を通じてパ・リーグでプレーした門田氏。本誌・週刊ポストが最後に連絡を取ったのは昨年11月だった。同じくパ・リーグのロッテで長く活躍し、やはりヒジの故障から復活を遂げた村田兆治さんが自宅火災で亡くなったという一報が流れた直後のことだ(享年72)。
同じパ・リーグで何度も対戦した村田さんから、門田さんは14本の本塁打を打っている。ただ、門田さんは「ライバルにはなれなかったね」と振り返っていた。
「ボクのほうが打てんかったんやから……。疲れているのか疲れていないのかが表情に出ないピッチャーやったね。兆治の場合、フォークの威力もさることながら、あのマサカリ投法だと、どのタイミングで始動すればいいのかわからない。もっといえば、兆治はバッターにフォークの握りをこっちに見せて、次に投げると宣言するわけです。それでも打てない。これはバッターとしては堪えましたね」
先発して9回になってもコントロールが乱れず、球威も落ちなかった村田さんが途中降板した記憶がないといい「あの時代の野球がどういうものか、叩き込まれた選手のひとりだった」と述懐していた門田さん。
「マサカリ投法が完成した頃かな、ボクが完璧なスライダーをホームランしてからはスライダーを投げてこなくなった。フォークが武器だったが、ボクが正しいコースに投げたカーブとスライダーをうまく打つことが悔しいということでフォークを投げるようになった。フォークとストレートのコンビネーションでしたね。フォークという名刺ができたので、バッターはフォークが来ないのに警戒する。そんな恐怖感を与えるピッチャーになったことで簡単に打てなくなりましたね」
そして「ボクが言うのもなんやけど、頑固やったからね」と言い添えて苦笑いしていた。