「不惑の大砲」が成し遂げた偉業とは──。かつてプロ野球の歴史が語られる時、「王貞治は引退する40歳の年、ホームラン30発を放った」という話題が何度も繰り返されてきたが、その記録を大きく塗り替えたのが1月24日に逝去が報じられた門田博光さん(享年74)だった。
1969年のドラフト2位で南海に入団した門田は2年目にレギュラーを奪い、打率3割、31本、120打点の好成績を上げて打点王を獲得した。身長170センチの門田は野村克也兼任監督にコンパクトなスイングを求められるが、あくまでホームラン打者を目指した。
「2リーグ分裂後、南海ホークスは黄金時代を築いてきたが、1969年に戦後初の最下位に沈みました。翌年から野村克也兼任監督が指揮を執ります。つまり、門田さんが入団した頃のチームは過渡期にあった。
その野村兼任監督は1977年に解任された。次の年から、南海はダイエーに身売りするまで11年連続Bクラス、そのうち5回も最下位になりました。そんな弱いチームで、門田さんは歴代3位の567本塁打を打った。歴代2位で657本の野村さん、1位で868本の王さんは毎年のように優勝争いという緊張感の中でプレーしていた。門田さんはシーズン中盤には優勝の可能性がなくなり、観客も入らない中で黙々と打ち続けた。その点に凄さが窺えます」(スポーツライター。以下同)
強打者を証明する指標のひとつに敬遠数がある。歴代1位の王貞治(巨人)の427は別格だが、門田は182で5位。その前後の4位は野村克也(南海、ロッテ、西武)の189で、6位は落合博満(ロッテ、中日、巨人、日本ハム)の160となっている。
「門田さんは7度のシーズンで、リーグ最多敬遠を記録しています。40歳で王さんを上回る44本塁打を打った1988年も20敬遠で最も多かった。しかし、翌年オリックスに移籍すると、わずか3つに減った。5番に石嶺和彦が控えており、勝負される回数が増えたからです。逆に言えば、南海時代は打線が弱いため、多く歩かされた。1980年代は6度も“敬遠キング”になっています。その中で、自分のバッティングを崩さず、ホームラン王を3度も取った。ちなみに、昨年三冠王を獲得した村上宗隆(ヤクルト)は141試合で25敬遠されましたが、1987年の門田さんは126試合で24敬遠でした」