通算本塁打567本、通算打点1678はいずれも王貞治氏、野村克也氏に次ぐ歴代3位。南海などで活躍した門田博光氏が74歳で亡くなった。“身長170cmの大打者”のフルスイングは、多くのファンの記憶に残っている。
大阪・ミナミの繁華街に立地していた南海の本拠地・大阪球場。1950~1960年代の“強い南海”の頃は超満員になったが、1970年代以降に同じ関西が本拠の阪急が黄金時代を迎えると、閑古鳥が鳴くようになった。
1988年もシーズン当初のスタンドはガラガラだった。しかし、9月にダイエーへの球団身売りと本拠地の福岡移転が決まるとファンが戻り始め、最終戦は満員札止めとなった。声援を一身に受けたのが「40歳の主砲・門田博光」だった。
この年の門田氏は打率・311、44本塁打、125打点で本塁打と打点の二冠王に輝き、史上最年長のMVPに輝いた。
生前、本誌・週刊ポストの取材に門田氏は1988年シーズンをこう振り返っていた。
「あの年がよかったのはたまたまだよ。ただ、マスコミがあんなに騒がなければ、三冠王が取れたと思ってますけどね(苦笑)。記者が家まで取材に来て、最後はペースを乱されてしまった」
門田氏の活躍は“不惑の大砲”と称えられたが、40歳という年齢で第一線を張るのは簡単なことではないと明かしていた。
「40歳のシーズンはとんでもない使われ方ばっかりだった。(杉浦忠)監督がいきなり“(先発が)左投手だから休んでもらおうか”なんて言い出すから、“なんでですか? そんな起用を王さんにしますか?”と噛みついたこともあった。
これが歳を重ねた選手の待遇か……と思いましたよ。ただ、反発して出場したその試合では、左投手からホームランを打ったのは自分だけ。次の試合も左投手が先発で、ベンチなんだと思っていたらスタメンだと告げられる。もう無茶苦茶でした。
ただ、プレーに対する気力は最高だったね。怖かったのはケガだけ」
たしかに、門田氏のキャリアはケガとの戦いだった。31歳の時にアキレス腱を断裂して1年を棒に振り、翌年に41本塁打を打って見事に復活。門田氏はこう述懐していた。
「アキレス腱を切った後は、“ホームランを打てば全力で走らなくていい”という考え方になった。ちょうど重いバットが振れるようになった時期とも重なった。ただ、他の選手は打つ、走る、守るでお金をもらっていたが、足が使えないボクは打つだけでお金がもらえる働きをしないといけなかった。それはプレッシャーでしたね」