260年の長きにわたり泰平の世が続いた江戸時代において、将軍の血筋を絶やさぬために生まれた「大奥」。大河ドラマ『どうする家康』でも注目される徳川幕府の女の花園『大奥』の謎に迫る。
大奥にはさまざまな職制が設けられた。上臈御年寄を筆頭に、小上臈、御年寄、御客会釈、中年寄など、その数は20以上にわたる。大別すれば、将軍に会うことのできる御目見得以上と、謁見のかなわない御目見得以下とに分けられる。多摩大学客員教授で歴史家の河合敦氏がいう。
「大奥の規模が最大となったのは、十一代将軍・家斉の時と推定されています。御台所や側室、上級女中の世話をする者まで含め、一説によれば3000人近くの女性が大奥で生活していた、といわれています」(河合氏、以下同)
たとえ将軍といえども、大奥に自由に出入りできるわけではない。特に大奥に泊まる時は、基本的には前もって連絡を入れる。夜伽の相手は御中臈と呼ばれる職制の女性に限られ、おおむね大奥の実力者である御年寄の推薦から選ばれた。
「食事の支度など、準備に時間を要するので、ふらりと将軍が遊びに訪れるということはほとんどありませんでした」
夜伽を務める御中臈は、事前に秘部を丹念に洗った後、危険物を持ち込んでいないかなど、徹底的な身体検査を受けた上で、寝所で将軍を待つ。寝所に入るのは将軍と夜伽相手のほか、御伽坊主と、御添寝役と呼ばれる御中臈も同室する。彼女たちは衝立の向こうで2人の情事に聞き耳を立てる役だ。つまり、将軍は彼女たちの監視下で行為におよぶ。
「御添寝役たちは聞いたことを翌朝、御年寄に逐一報告します。1対1の空間ですから、将軍に個人的なおねだりをすることも可能なので、そのようなことのないようチェックしました。綱吉の時代に度の過ぎたおねだりをした女性がいたことから制度化されたようです」
一度、将軍のお手付きとなっても側室とはいわない。子を産んではじめて側室(御部屋様)となる。ただ、妊娠しなくても将軍に寵愛され側室になったケースもまれに存在する。
※週刊ポスト2023年2月10・17日号