“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。第12話ではついに力道山との出会いのきっかけとなる「進路」選びの岐路に立たされる。【連載の第12回。第1回から読む】
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第12話「不合格」
女子の4年制大学の進学率が10%を超えたのは“女子大生ブーム”真っ只中の1984年で、それまでは長らく1桁台を推移していた。ちなみに30%を超えたのが2000年と思いのほか最近である。
進学率2%台だった昭和30年代はと言うと、女子は高校を卒業したら数か月間の家事手伝いという花嫁修業をへて、秋には見合いをして、そのまま結婚に至る事例が少なくなかった。結婚適齢期が19~22歳という時代の話である。
早くから「外交官になりたい」という将来の目標を抱いた神奈川県立平沼高校3年の田中敬子は、この時代において稀有な存在だったことがわかる。「私は大学に行きたい」と父親の勝五郎に言うと「そうしろ。これからの時代は女も大学に行く時代だ」と後押ししてくれた。進学先を国際基督教大学に決めたのは、すでに述べたように、中3の夏「青少年赤十字世界大会」で出会った都立駒場高校の大宅映子に示唆されたからで、現に大宅映子はこの年、国際基督教大学に進学し『ミュージックジャーナル』等の音楽専門誌に寄稿するなど、18歳にしてライターとしての活動を始めていた。
「大宅映子さんとはその後は会うことはなかったんだけど、文通はしていたの。電話で話したこともあった。正式に国際基督教大学に行くことを決めてからは、受験のこととかいろいろ聞いていたの」(田中敬子)
国際基督教大学(ICU=International Christian University)は、日米のキリスト教指導者による会議をへて1949年に創設、1953年に開学した大学である。高校2年生のとき「開港百年祭記念英語論文」で社会人や大学生を抑え最優秀賞を受賞し、クラスはもちろん、学年の成績もトップクラスだった田中敬子にとって、本来であれば新設大学はさほどの難関というわけでもなかったに違いなく、担任教師も「問題ない。お前なら国立を狙ってもいいのに」とまで言った。しかし、実際はまったくそうではなかった。試験内容が独特なのである。