張本勲、衣笠祥雄、門田博光、村田兆治、江川卓、掛布雅之……プロ野球界には現役時代に圧倒的な成績を残し、ファンからの人気も高いにもかかわらず、監督にならない元スター選手がいる。その1人に1970年代から1980年代にかけて中日ドラゴンズで活躍した谷沢健一(75)が挙げられるだろう。(文中敬称略)
2月3日、谷沢は、元南海・阪神の江本孟紀(75)のYouTubeチャンネル『エモやんの、人生ふらーりツマミグイ』に出演し、“谷沢さんはなぜ中日の監督になれなかった?”をテーマに話し合った。
1969年秋のドラフト1位で早稲田大学から中日に入団した谷沢は1年目からレギュラーを奪い、新人王に輝いた。巨人のV10を阻止した1974年、巨人を0.5ゲーム差で振り切った1982年の優勝時も主力として活躍。39歳で引退するまで14度規定打席に到達し、6度も3割を打った。
「同じ時代に活躍した1年先輩で明治大学出身の星野仙一さんは、投手として8度のシーズン2桁勝利を挙げて通算146勝を記録し、中日を代表する選手の1人でした。その星野さんは中日で計11年間監督を務めた。投手と野手で比べにくい面はありますが、谷沢さんの現役時代は、星野さんと同様“中日の顔”だったと言っていい。しかし、引退後一度もドラゴンズのユニフォームに袖を通していない。当時を知るファンであれば、誰もが疑問に思うことです」(スポーツライター。以下同)
ドラゴンズの歴史の中で、谷沢は特筆すべき成績を残している。中日で2000安打を達成した選手は高木守道、谷沢健一、立浪和義、谷繁元信、和田一浩、荒木雅博のわずか6人。谷繁は横浜、和田は西武で1000本以上のヒットを打っており、中日のみで2000安打を放って名球会入りしたのは、高木、谷沢、立浪、荒木の4人しかいない。
「その4人で首位打者を獲得したのは谷沢さんだけですし、1980年の3割6分9厘は中日史上最高の年間打率です。しかも、この年はアキレス腱の怪我から復帰してカムバック賞を受賞。近年、強打者の指標とされているOPS(出塁率+長打率)が1を超えるほど打ちまくった年でもありました。
1976年には巨人に移籍してきた張本勲さんを抑えて1毛差で首位打者になっており、生涯打率3割2厘は王貞治さんを上回る数字です。37歳の1984年は打率2位(巨人・篠塚利夫に1分5厘差)、ホームラン4位(阪神・掛布雅之と中日・宇野勝に3本差)、打点2位(広島・衣笠祥雄に3差)と三冠王に迫る成績を残しています」