約1000日間、比叡山の山中などを祈りながら歩き続け、9日間断食・断水・不眠・不臥で不動真言10万回を唱える「堂入り」など、平安時代から1000年続く最も苛烈な修行に28才で挑んだ光永圓道師。15才で仏門に入って以来、「一に掃除、二に看経、三に学問」と、朝から晩まで掃除と修行の日々を送った光永師は、最新著『比叡山大阿闍梨 心を掃除する』のなかで、「掃除でこそ人生が整う」と説く。その本質は「きれいにする」ではなく「もとに戻す」だという──。光永師が辿り着いた“整え方”を紹介しよう。
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世間一般において、神社仏閣は「いつ行ってもきれいだ」、「整理整頓が行き届いている」と、お褒めの言葉を頂戴することがすくなくありません。僧侶や神主さんにとって、神社仏閣は聖域であるという大前提はあるものの、それだけが「整っている理由」ではないのです。
たとえば、多くのものが乱雑に散らばった寺院の中であっても、不思議なことに1カ所だけはきれいに整っている。それは仏壇です。仏さまを安置し、御先祖さまを供養する場所ですから、丁寧に扱うのは当たり前ですが、もうひとつの理由について、私が深く得心した瞬間がありました。
ものが乱雑に散らばった家の中でも、仏壇だけが乱れていないのはなぜか。
それは、難しい理屈ではありませんでした。仏壇に置かれたものには、すべて「ふさわしい場所」が与えられていたのです。御本尊や御先祖さまの位牌、過去帳、仏飯器や燭台、香炉、線香立てまで、とにかく仏壇にはたくさんのものが並びます。
けれど、これらはいずれも「決まった場所」に置かれ、その場所を「ほかのもの」が占拠する、つまり「置き場所がなくなる」ということはありません。御本尊は最上段の真ん中、その左右には向かって右に仏飯器、左には茶湯器、その外側には御先祖さまの位牌、下段には香炉に燭台、さらに下には線香立てや数珠と決まっています。
このようにたくさんのものがあっても、しかるべきルールに則って、あるべき場所に整然と並んでいれば、長期間にわたってほこりを払わずとも、汚れていると感じることは少ないのです。
実際、お寺の御本尊や脇侍の仏さまに対して、私たちは日常的にはたきをかけたりはいたしません。お堂の床を丁寧に拭くだけで、御本尊は輝くのです。