修行のクライマックスは、9日間にわたってお堂に籠り、何も食べず、何も飲まず、眠らず、横にさえならずに、不動明王の真言を10万遍唱え続ける「堂入り」だ。
「お堂に入る前には、(自分自身の)お葬式をしますので」(光永さん)と言われた一同は、驚きのあまり、ため息をつく。
「9日間、飲まず食わずで生きていられるものなのでしょうか」と投げかけた弘中アナへの答えは、堂入りの最中に撮られた1枚の写真だった。真夜中、仏様にお供えする水を汲みに向かう光永さんのやせこけた姿に、悲鳴にも似た声が上がった。
番組では、他にもたくさんの壮絶なエピソードが語られたが、光永さんの軽妙な語り口のおかげか、終始明るい雰囲気だ。最近、光永さんが出した著書『心を掃除する』でも、その優しさと聞きやすくて深い言葉は随所に光っている。以下は、その一部抜粋だ。
《掃除や整理といった言葉の真意を、あなたはどのように考えるでしょうか。「汚れを落とす」、「乱れたものをきれいにする」といった捉え方をなさるかたもいらっしゃるかもしれません。私はすこしだけ角度を変えて、考えてみることをお勧めしています。
掃除とは、もとに戻すこと。私はそう捉えています。(…)人は、存在しているだけで「汚すこと」から逃れられません。死ぬまで止められない小用大便はもとより、歩けば草木や蟻を踏みつぶし、山河を破壊し、あらゆる生き物を食べ尽くす。いまでは、人工衛星やロケットの破片を宇宙にまで漂わせています。
けれど、それでも人は生きるわけです。人間である以上、どうしても汚すことから逃れられないのであれば、もとの状態以上にきれいするところまではいかなくても、せめて「もとに戻すこと」くらいにはチャレンジしてみるのも、おもしろいのではありませんか。》(『心を掃除する』より)
苛酷な千日回峰行と、自分の心や住まいを掃除する日常が、どうつながるのかが綴られている。
「最後に、恐縮ではあるんですが、若林さん、ラベリングを」(弘中アナ)
「えっ!」(若林)
「阿闍梨様に」(弘中アナ)
いかめしく、重々しく説法するのではなく、笑みを絶やさず、人間味あふれる語り口の大阿闍梨様に魅了されたかのように、若林が頭を下げ、それは起こった。
「(自分が)ラベリングするには、まだ修行が足りないなと思わされる人」(若林)
まさかの“ラベリング拒否”に対して、弘中アナの様子もいつもとは違う。
「たしかに……はい」(弘中アナ)
こうして、前代未聞の放送回は幕を閉じたのだった。